「人間」という漢字を「人の間(あいだ)」と書かせるのは、人と人との関係の中で生きる存在だからなのでしょうか。
人は一人で生きていけない。私は、ひとりぼっちも経験したことがありますし、たくさんの仲間に囲まれることも経験したことがあります。キリスト教関係の全国大会に行くと、ほとんどが知り合いということがあります。そうすると、心強くうれしい半面、知り合いが多過ぎて疲れてしまうことがあります。
一方で、宗派が違うなど、関わりの薄い団体の全国大会に行くと、知り合いが少ないことがあります。気楽な半面、仲良く話している人たちを見ると、少し寂しさを感じます。人は、人との関わりの中で生きる存在だと痛感します。
しかしもう一つ、「人間」の「間(あいだ)」の字を「間(ま)」と読むこともできます。
人は、神によって造られたと聖書は語ります。
そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。(創世記1:26、27)
人が造られた経緯は、下記のように記されています。
その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。(創世記2:7)
①神が、人を粘土で形造られた。
②人の形をした土の塊に、神が、いのちの息を吹き込まれた。
③そうしたら、人は生きものとなった。
人の間(ま)に神の息が入ることで、人の形をした粘土が、人間になったのです。
しかし、蛇の姿を取った悪魔の誘惑によって、人は神を捨ててしまいました。その時、神の息は人から離れました。その結果、人は、いのちの力の影響でしばらくは生きますが、やがて死ぬようになりました。
これは、花束や生け花を見たら分かります。しばらく咲いていますが、やがて枯れてしまいます。
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。(ヨハネ15:5、6)
聖書が教える罪とは原罪のことで、神の息が離れた状態を指します。人間とは、「人の間(ま)」に神が臨在し、住まわれることによって生きる存在だと、「人間」という漢字を作った人が意図したかどうか分かりませんが、そのことを暗示し、教えているのではないかと思います。
私たち人間は、先祖アダムとエバが犯した罪によって、神の息が離れた存在として生まれてきました。
ああ、私は咎(とが)ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。(詩篇51:5)
だから、私たち人間は死ぬのです。しかし元々は、永遠に生きる存在として造られました。人は潜在的に、永遠に生きることを知っているのではないかと思います。
神はまた、人の心に永遠を与えられた。(伝道者の書3:11)
人は永遠を知っているからこそ、死にたくないし、死に対して違和感を感じているのです。神は、死を滅ぼして、永遠のいのちを与えるために、ひとり子イエス・キリストをこの地上に遣わしてくださいました。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)
イエス様は、人が造られた日のように、十字架、葬り、復活によって、信じる人が「人の間(ま)」に神を迎えることができるようにしてくださいました。「人の間(ま)」は、「人」や「物」で埋めても、決して満たされません。それは代用品に過ぎないからです。
「人の間(ま)」は、「神」でしか満たすことができないのです。いつも仲間に囲まれている人は、ひとりぼっちの自分に気付きにくいかもしれません。中には、人と一緒にいることで、余計に孤独を感じてしまう人がいるかもしれません。しかし、ひとりぼっちの時が、自分の間(ま)を感じ取りやすいのではないかと思います。だから、ひとりぼっちも良いのです。
クリスマスにひとりぼっち、「クリぼっち」で寂しいでしょうか。いや「クリぼっち」は幸いです。キリストが共におられることを感じられる人は、永遠に共におられる方を知っているので、ひとりぼっちではないし、寂しくありません。
「ひとりぼっちも、仲間といるのも、どちらも良い」のです。今日も素敵な一日でありますように。
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