天地の創造主である神様は本当に存在するのか、歴史の中で多くの人が探求してきたことでしょう。聖書の中に答えを求め、真剣に読み進める人も多いのでしょう。
ところが聖書のどこを探しても、神様の存在を、筋を通して説明している箇所はありません。それどころか、聖書の最初に記される創世記の言葉は、いきなり神様の存在を前提として始まっています。
はじめに神が天と地を創造された。(創世記1章1節)
また別の箇所では、神様の存在を否定する者を愚か者とさえ記しています。
愚か者は心の中で「神はいない」と言う。(詩篇53篇1節)
さらに新約聖書では、創造主である神様の存在やその偉大な神性は、この世界を見れば、反論の余地がないほど自明なことだと伝えています。
神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。(ローマ人への手紙1章20節)
人の知恵で神様を知ることはできない
これほど当然のこととされる神様の存在ですが、現代社会においては神様の存在を疑う人が多くなったのは確かです。その理由を一言で語るなら、人が自らの知恵で神様を知ろうとする時代になったからなのでしょう。
そもそも聖書には、人の知恵によって神様の存在を知ることがないと記されています。
神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。(コリント人への手紙第一1章21節)
現代社会は、文明の進展により、自然界やこの世界に満ちる不思議なことのほんの一部を知ったため、神様の存在さえも自らの知恵で理解できると錯覚しているのかもしれません。
偉大な神様の存在は人の知恵や知識の及ぶところではなく、被造物の不思議を通し、心の中で(霊の領域で)感じ取るものなのでしょう。
神様に一方的に愛されている
このように、神様の存在を、自然界を通して感じ取ることができたとしても、創造主である偉大な神様と、それに比べてあまりに小さな人(自分)との関係が理解できるわけではありません。
状況によっては、神様の存在が恐ろしく感じることもあります。また、この世にはさまざま宗教が存在しますから、聖書信仰だけが正しいと判断することも難しいでしょう。
しかし聖書には、偉大な神様が人(自分)をどれほど愛しているかが、具体的に示されています。聖書の伝える内容が、他の全ての宗教と異なっているのは、この点にあると思います。
特に、今から2千年ほど前に実在したイエス・キリスト(神様のひとり子)を指し示す聖書の言葉は、多くの人の人生に劇的な良い変化をもたらしてきました。
私たちは、偉大な神様の存在を心の底で感じ取るだけでなく、イエス・キリストの存在と生涯を知ることによって、神様から一方的に深く愛されている自分自身を発見することになるのです。
いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神(イエス・キリスト)が、神を説き明かされたのである。(ヨハネの福音書1章18節)
神様の存在を求める全ての人へ
神様の存在を求める全ての人へ提言をしたいと思います。どうぞ、この世の知恵と知識によって求めるのではなく、心の貧しい者となって神様を求めてください。心の中で(霊の領域で)神様の存在を感じ取ってください。
心の貧しい者たちよ 見て喜べ。神を求める者たちよ あなたがたの心を生かせ。(詩編69篇32節)
そして、聖書の言葉を通し、イエス・キリストの足跡をたどってください。神様は真実な方ですから、必ずご自身の姿をはっきりと示し、あなたが神様に愛されている存在であり、イエス・キリストの贖(あがな)いの業によって、神の子どもとされていることを示してくださるでしょう。
あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。(ガラテヤ人への手紙3章26節)
あなたの人生は新しくされ、永遠の神の国を受け継ぐ者とされるでしょう。
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