先日、長年日本の葬儀事業を担ってこられた方が、「日本人が葬儀の中で求めているのは、故人が天国に逝ったことを示す希望だが、今の仏教式葬儀では、それが全く伝わってこない」と嘆いておられました。
仏教の中にも、聖書の伝える「天国」に似た「極楽」がありますが、そもそも仏教の目標が、仏陀の教えに従って修行・実践し、悟りや解脱(涅槃)を成道することにあるため、簡単にたどり着けない遠い世界のように感じるかもしれません。
一方、キリスト教の目標は、神様が備えてくださる「神の国」(天国)そのものですから、葬儀では、賛美歌や祈り、聖書の言葉を通して「天国の希望」が真っすぐに伝えられます。参列者は天国の存在を知り、故人が天国へ逝ったことや、天国で再会する希望を受け取ることができます。
聖書や教会になじみのない日本人ですが、このようなキリスト教葬儀を通して「天国の希望」に触れ続けるなら、やがて、仏教葬儀文化に代わり、キリスト教葬儀文化が日本社会に浸透し、多くの日本人が信仰を持つようになるでしょう。
故人に「未信者」のレッテルを貼ってはいけない
このような期待の持てる日本社会ですが、「天国の希望」を伝える葬儀の場は、故人が「信者」の場合に限ると考える牧師や教会が多いのも事実です。
「信者」の比率が1%程度とされる日本社会ですから、このことがキリスト教葬儀の普及を妨げ、教会が地域住民のエンディングに寄り添えない要因になっているように思います。
確かに聖書には、信仰によって罪が赦(ゆる)され、永遠のいのちが与えられると記されています。「天国の希望」は「信者」だけが無条件に受け取れる恵みです。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネの福音書3章16節)
しかし、信仰の有無は人の内面(霊)に関わる領域のことですから、外見や来歴から判断できるものではありません。気付かないうちに「信者」になっていることも珍しくありません。「未信者」とされる方の中にも「信者」はたくさんおられると思います。
また、たとえ「未信者」として生きてこられた方でも、召されるまでには多くの試練を受け、死に至る弱さを経験されたわけですから、弱さの中で神様に見いだされ、天国に導かれた方も多いのでしょう。私たちは故人に対し、安易に「未信者」のレッテルを貼らないように気を付けたいものです。
人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。(ルカの福音書19章10節)
聖書によれば、全ての人は神様の前に罪人であり「失われた者」ですが、神様はイエス・キリストを通し、「失われた者」を命懸けで探し出し、天国に導いてくださっています。
緊急の葬儀依頼、日曜日の対応
先日、北陸方面から緊急の葬儀依頼が入りました。依頼を受けたのが金曜日、葬儀日程が日曜日とのことでしたので、余裕がない上に、地域教会の牧師は礼拝奉仕と重なって都合がつかず、私自身が遠方から電車を乗り継ぎ、司式に対応することになりました。
故人が生前にキリスト教葬儀を希望したようですが、家族や友人には、信仰について話したことはなく、教会に集ったことがあるのか、あるいは洗礼を受けたのか、本当に「信者」だったのか、全く情報はありませんでした。
それでも、故人のエンディングに関わってこられた方から、弱さを抱えて逝かれた様子を聴くことができ、葬儀の準備の中で、神様が天国に導いてくださったと信じることができました。
「天国の希望」を分かち合う明るい葬儀
参列者の中にも「信者」は誰もいませんでした。それどころか、キリスト教葬儀への参列も初めてらしく、皆、緊張して硬い表情で葬儀に臨んでこられました。
私は、キリスト教葬儀の意味を簡単に説明した後、賛美歌を共に歌い、祈りを導き、次第に参列者の表情が柔らかくなるのを確認しながら、聖書の言葉を伝えました。
あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。(マタイの福音書18章12、13節)
私たちは全て、神様から見ると「迷える子羊」です。自分の力では神様を知ることはなく、また人生の目的も分からず、死を恐れるものです。しかし、神様は私たちのために、ひとり子イエス・キリストを人として送りました。彼は、私たちの弱さ、罪深さを代わりに背負い、十字架にかけられ、死んで葬られ、3日目によみがえりました。
それは、羊飼いが迷える一匹の羊を探し出すように、神様が私たちを命懸けで探し、見つけてくださることを歴史の中に示しています。それほど神様は、私たちを愛してくださっているのです。
神様の大きな愛を伝えるうちに、参列者の表情には、悲しみの中にも明るさが現れ、賛美歌を歌う声がはっきりと聞こえるようになりました。
ひつぎにふたを閉め、火葬炉に送る際、もう一度「天国の希望」を短くお伝えしたとき、参列者の多くがしっかりとうなずいておられたのが印象的でした。
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