本書『イエスに出会った女性たち』は、カトリックの司祭である英(はなふさ)隆一郎氏による著作です。同じようなテーマの書籍は、私の書庫を見るだけでも、遠藤周作の『イエスに邂(あ)った女たち』や、モルトマン・ヴェンデルの『イエスをめぐる女性たち』などがあります。キリスト教徒であっても、そうでなくても、興味を引くテーマだと思います。
そうした中で、なぜ英氏の著書を読もうと思ったかといいますと、英氏が「ネガティブ・ケイパビリティ(Negative Capability)」という言葉をインターネット上で発しておられたからです。ネガティブ・ケイパビリティとは、「現時点で解決できない事態を、早急に解決するのではなく、それにもやもやしながら耐える力」といえるでしょうか。
ネガティブ・ケイパビリティの逆は「ポジティブ・ケイパビリティ(Positive Capability)」ですが、これは「早急に答えを出して解決すること」です。現代社会においては、とかく結果を早く出すことが求められる風潮がありますが、ネガティブ・ケイパビリティはそれに待ったをかけるものだと思います。
英氏は、「山上の説教の幸い章句にネガティブ・ケイパビリティを見る」と言います。イエスの教えでは、「心の貧しい人々」「悲しむ人々」「義に飢え渇く人々」などが幸いであるとされます(マタイ福音書5章3~10節)。ここに列挙されている人々は結果を出していません。自分の悲しみを解決して喜びの状態にあるわけではありません。しかし、結果を出していない状態にあることが、それ自体が幸いだとイエスは言われているのです。
こうしたことにヒントを得て、英氏の著書をネガティブ・ケイパビリティの視点で読んでみました。本書には、12人の女性が15章に分けて登場しています(ルカ福音書10章38~42節のマルタとマリアは、ヨハネ福音書のベタニアのマルタとマリアと同一とします。また、6章は「罪の女と仕える女たち」として複数の女性が登場します)。
1章は、イエスの母マリアの受胎告知(ルカ福音書1章26~38節)の場面を取り上げています。ここでは、「どうして、そのようなことがありえましょうか」という疑問をそのままにして、「この身に成りますように」と、受胎告知を受け入れるマリアのことが伝えられています(9~10ページ)。英氏は、マリアの生涯はこれと同様なことの連続だったのではないかと言います。しかしマリアは、ショッキングなことをまず受け入れ、徐々に取り組み、最終的な受諾にたどり着くとしています(12ページ)。
3章は、マルコ福音書5章21~34節にある出血症の女性について書いています。女性は群衆の中で、イエスの後ろからその服に触れます。藁(わら)にでもすがる思いだったのでしょう。しかし、触れた途端に病が癒やされたことを感じます。
けれども、話はここで終わるわけではありません。イエスが、自分から力が出て行ったことを感じて、触れた者を探し出したからです。女性は、病は癒やされましたが、新たな問題に直面することになります。しかし、正直に告白すると、イエスは「安心して行きなさい」と言われました。病を癒やされただけで終わっていれば、イエスから励ましの言葉をかけられることはなかったでしょう。しかし、癒やしで終わらなかったからこそ、励ましを受け、さらに恐らくは共同体への復帰を命じられたのです(27ページ)。英氏は、すぐに結果を出すというポジティブ・ケイパビリティではなく、一度「タメ」が置かれていることに注目し、その時にイエスがなされたことを記しています。
5章は、「ご訪問のマリア」と題されており、エリザベトを訪問した際のマリアが伝えられています。そして、その時に唱えられたマリアの賛歌が取り上げられています。英氏は、この賛歌において「神によって、卑しい立場に置かれた女性が解放され、祝福を受けるということを高らかに誉(ほ)めたたえていると解釈することができるだろう」としています(61ページ)。そして、マリアが「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」(ルカ福音書1章45節)と言っていることに注目しています。その上で、「『実現すると信じる』というのは、この救いの大きなビジョンが実現すると信じ、それにさまざまな立場から努力していくことを意味している」としています(63ページ)。
ネガティブ・ケイパビリティは、結果を出さなくてもよいということではないと思います。結果はすぐに出ないけれども、マリアが言っているように、主がおっしゃったことは必ず実現すると信じて、地道に努力していくことも、ネガティブ・ケイパビリティの一側面であると思います。
8章は、マルタの姉妹のマリアが取り上げられています。イエスが訪問したとき、せわしく接待をしていたマルタに対し、イエスの足元に座って話を聞いていたマリアです(ルカ福音書10章38~42節)。ここでは、現代社会の中にマルタの姿を見て、「現代社会が便利になりすぎて、すべてのスピードが増して、忙しくなりすぎてしまった。思い悩むことが増えてしまった。家族のこと、仕事のこと、健康のこと、将来のことなど、心配は尽きることがない。そこから、うつ病や神経症など、心の病が増えてしまった。マルタのような心の状態で、働きすぎた結果ではないだろうか」として、マリアのようにイエスの言葉を静かに聞くことが大切であるとしています(68~69ページ)。このことを私たちに当てはめれば、終日忙しさの中に埋没してしまうのではなく、1週間に1度、日曜日には礼拝を守り、静まって神の言葉を聞くことが大切だということなのだと思います。
しかし9章は、マルタを取り上げ、彼女を好意的に見ています。「実際のところ、世間の面倒な用事から逃げ出したいと願うこともある。イエスの前でじっと座り続けて、神の愛にただ浸っていたいと思うかもしれない。しかしながら、そのような祈りは単なる責任逃れの逃避行為になってしまうこともある。ときどき社会の厳しい現実から逃避するために修道生活を望む人がいるが、このような逃避を動機にしている人は早晩行き詰ってしまう。わたしたちもマルタと共に、取り巻いている難しい現実に取り組まねばならないのだ」としています(76~77ページ)。ネガティブ・ケイパビリティは、逃避行為ではないのだということを、マルタの姿から教えられます。
12章は、女預言者アンナが毎日神殿で断食と祈りをしていたことを取り上げ(ルカ福音書2章37節)、「老後で一番大事なことは、することではなく、いかにあるか(being)」だとしています(96~99ページ)。ネガティブ・ケイパビリティとは、まさにアンナの「いかにあるか」に目を向けた生き方なのだと思います。
英氏は、ネガティブ・ケイパビリティを基にして本書を著したとは言っていませんが、内容的にはそうなっていると思います。「スピード、スピード」「結果、結果」とせき立てられる現代社会において、イエスに出会った女性たちに、ネガティブ・ケイパビリティを見ていくことは大切であると思わされました。
■ 英隆一郎著『イエスに出会った女性たち』(女子パウロ会、2013年3月)
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