これまでに千人以上の水俣病患者を診察してきた熊本県在住の医師、緒方俊一郎氏が8月23日、オンラインで開かれた阪神宗教者の会(代表世話人・岩村義雄牧師)の例会で、「水俣病は終わっていない」と題して講演した。
緒方氏は、熊本県南部の山間部にある相良(さがら)村唯一の有床診療所「緒方医院」で、半世紀以上にわたって地域医療を支えている。代々続く医師の家系で、緒方医院は江戸時代末期の1823年開業。緒方氏自身は6代目の医師だ。また、正教の家系でもあり、特に信仰熱心だった祖母は、「近所のお坊さんたちをやり込めるくらいの人」だったという。緒方氏自身も幼児洗礼を受けており、代々の信仰を受け継いでいる。
九州大学医学部の出身で、先輩には淀川キリスト教病院名誉院長で神戸国際支縁機構理事の白方誠彌(せいや)氏、後輩には5年前にアフガニスタンで凶弾に倒れたNGO「ペシャワール会」現地代表の中村哲氏がいる。いずれも医師でキリスト者である3人は、病気の治療に当たるだけでなく、さまざまな社会の不公正にも向き合ってきた。
緒方氏にとっては、水俣病患者の救済がライフワーク。研修医の頃、水俣病について学びたいと、水俣病研究の第一人者である原田正純(1934~2012)の元を訪れた。「現場の事実に学べ」と言われたことから、時間を見つけては沿岸部の水俣市まで足を運び、患者と向き合ってきた。また、治療するだけでなく、患者の支援拠点「水俣病センター相思社」の運営にも携わり、水俣病を伝える活動も行ってきた。
講演では、水俣病の原因であるメチル水銀を含んだ廃液を工場から排出していた日本窒素肥料(現チッソ)の設立から、水俣病の公式確認・公害認定までの流れ、水俣病の症状、水俣病を巡る集団訴訟の最近の判決、水俣病特措法などを概説。最近診察した水俣病患者の事例を紹介するとともに、行政側が患者を複雑に分類することで差別を招いていることなどを話した。
水俣病の公式確認・公害認定に至るまで
日本窒素肥料は1908年、その数年前に鹿児島県で水力発電所を開いた野口遵(したがう)が設立。32年にはその水俣工場で、アセトアルデヒドの製造を始めた。この製造過程で水銀が触媒として使用され、水銀の有機化合物であるメチル水銀を含んだ廃液が無処理のまま水俣湾に排出された。メチル水銀は食物連鎖で濃縮され、汚染された水俣湾周辺の魚貝類を食べた住民が、水俣病を発症することになった。
熊本大学の調査によると、アセトアルデヒドの製造が始まってから9年後の41年には、胎児性水俣病(メチル水銀を摂取した母体由来の水俣病)の疑いがある子どもが出生。水俣湾周辺で魚が浮上死したり、魚を食べたとみられる猫やカラスが異常な行動をしたりするのが目撃されるようになった。そして、メチル水銀が水俣湾に排出されるようになってから24年後の56年、水俣病が公式に確認される。
当時は異説を唱える学者もおり、日本窒素肥料側も強く反発したことから、水俣病の原因がメチル水銀と確定されるまでにはさらに時間がかかる。水俣工場でアセトアルデヒドの製造が停止され、厚生労働省が水俣病を公害と認定するのは68年で、公式確認から実に12年もの月日を要した。
水俣病は「食中毒」 症状は段階的
一方、水俣病が公式確認される9年前の47年には食品衛生法が公布され、翌48年には施行されている。緒方氏は、水俣病はメチル水銀により汚染された魚介類を食べたことで発生する「食中毒」だと指摘。公式確認時点で行政が同法に基づき、水俣湾周辺で採れた魚介類の販売を禁止するなどの措置を取っていれば、被害の拡大は防げたはずだと語った。
また、水俣病の症状は、メチル水銀の暴露度合いによってグラデーションがあることを説明。風邪のような軽度の症状で済む人もいれば、重症化して命を落とす人もいた新型コロナウイルス感染症を例に挙げ、「水俣病の症状もいろいろな段階があることを認識する必要がある」と語った。それなのに行政は、海外のメチル水銀中毒で確認された症状(ハンター・ラッセル症候群)を水俣病患者の認定基準とすることに固執し、認定範囲を限定的にしてきたという。
新潟と熊本で判断分かれる判決
メチル水銀による公害は、昭和電工(現レゾナック・ホールディングス)の鹿瀬工場(新潟県)から排出された廃液によっても起きており、「新潟水俣病」「第二水俣病」と呼ばれている。今年4月に新潟地裁で言い渡された新潟水俣病を巡る集団訴訟の判決では、原告47人中26人が水俣病と認定された。また、賠償請求期限を20年と定めた「除斥期間」については、「差別や偏見のために賠償請求する権利を行使することは困難だった」として適用しない判断を提示。国の責任は認めなかったものの、レゾナックの責任は認め、1人当たり400万円を支払うよう命じた。
一方、熊本の水俣病を巡る集団訴訟は、今年3月に熊本地裁で判決が言い渡されたが、原告144人中25人は水俣病と認定されたものの、除斥期間を理由に賠償請求はいずれも棄却。除斥期間の適用を巡って判断が分かれる形となった。
水俣病患者の現在
緒方氏が最近診察した事例では、胎児性水俣病の60代女性らを紹介。女性は、行政が定めた汚染地域外で生まれ育ったが、母親が鮮魚の行商をしており、汚染地域で購入した魚介類を食べていたことから発症した。父親は早くに亡くなっており、母親も昨年死去。2人の姉にも症状があり、一家全員が水俣病だったという。それでも女性は水俣病とは認定されておらず、行政不服審査を申請している。
緒方氏は、この女性を含め現在も水俣病患者数人を診察しているが、今でも病気の症状に苦しんでいる人は多く存在すると話す。また、当初は結核などの伝染病の可能性も指摘されたことから、患者やその家族はひどい差別にさらされてきた。そうした差別を恐れたり、行政側の情報発信が不十分だったりしたことから、水俣病特措法の約2年の申請期間に申請できなかった人は多くいるという。また、公害発生地から遠い地域には、水俣病を診断できる医師はほとんどおらず、他の病気と診断されてしまうケースも多いという。
水俣病患者に支給される手帳は、補償や救済内容によって5種類ある。行政から認定されず手帳のない人も含め、皆同じ「被害者」であるにもかかわらず、患者を複雑に分類し差別していると緒方氏は指摘する。そして、これが患者間の分断を生む一因になっているとも話した。
緒方氏は最後に、松原・下筌(しもうけ)ダム(大分県、熊本県)の建設反対運動を主導した室原知幸(1899~1970)の言葉を紹介。民主的なやり方は「法にかない、理にかない、情にかなう」ものであるべきだとし、国や県を含めた行政は、水俣病についてもこの姿勢で取り組むべきだと話した。
阪神宗教者の会は東日本大震災後、キリスト教の牧師、仏教の住職、神道の禰宣(ねぎ)が、宗教者の視点で震災後の復旧・復興・再建について意見交換しようと始めた会。毎月第4金曜日には、さまざまな分野の専門家を招いて例会を開催している。次回の例会は、9月27日(金)午後5時からオンラインで開催され、石川県議や同県珠洲(すず)市議として珠洲原発反対運動の中心的な働きに従事してきた北野進氏が、「珠洲原発を食い止めた闘い」と題して話す。参加申し込み・問い合わせは、世話人代表の岩村牧師(メール:[email protected]、電話:070・5045・7127)まで。