春がもうそこまでやって来ています。春と言えば、イースター。そしてまた引越しの季節でもあります。少しずつ明るい季節に変わり、何となく忙しいけれども、同時にまた楽しみが増えていく季節でもあります。
春に祝われるイースターは、既に皆さんご存知の通り、日本語では「復活祭」と言います。日本では、それほどポピュラーではないイースターも、ヨーロッパではクリスマスと同じくらい大切な行事として祝われます。
ドイツでのイースターの思い出と言えば私の場合、ドイツ人お得意の(?) Die Einladung des Fruhstucks (朝食への招待)です。ドイツ人は日本人が親しい人を午後のお茶に誘うように、朝食によく招待します。
私も日曜日の礼拝の後、教会に通っている女性の自宅に招かれたことがありました。牧師や他の何人かの人達と一緒に、教会近くの彼女の家に行き、家の扉を開けると、彼女が嬉しそうに出迎えてくれました。彼女の案内で、朝食が用意されたリビングへと入って行くと、テーブルの上にはカラフルな卵と、羊に模られたスポンジケーキが並べられていました。そして、バッハの曲をBGMにお昼近くまで歓談しながら、おいしい brunch を頂いたのです。イースターの朝、特別に用意された das Fruhstuck に招待された時のことは、日本では経験できないとても大切な思い出になりました。
ドイツ人は、このように何かに付け他人と die Verteilung (分配) しながら生活することが多く、車を相乗りする die Fahrgemeinschaft や、他人同士で家を共有する die Wohngemeinschaft は割と一般的です。他人とある約束事を決めて、便宜上何かを共有するというのは、日本人には理解し難いセンスかもしれません。特に die Wohngemeinschaft のように、男女で共有スペースを持ちながら一つの家に住むというのは、道徳的にも簡単には受け入れられないと思います。けれどもドイツ人にとって、このように暮らすことは一つの「生活の知恵」であって、誰かとシェアすることを当然のこととしています。
他人と何かをシェアするというのは、その相手を信用しなければ出来ないことです。そしてまた、お互いに相手の境界線を良く理解していなければいけません。今の日本人は、この二つのことが苦手のような気がします。
人は誰でも、相手に踏み込んでもらいたくない部分があります。けれどもそれは言葉にされない限り、相手には伝わらないものです。ヨーロッパ人の場合、お互いの思いを言葉に出して表現することが、smart にされていると思います。意見を言う人も、「分かってもらいたい」という気持ちを伝えようという熱意がありますし、言われる側も「はっきり言ってもらってよかった」と思うことができます。日本人の場合、言う側に遠慮があり、言われる側もまた傷付くことが多いのです。これは自己主張する人が、そのタイミングや伝えたいことを咀嚼してから、相手に伝えようとしていないからだと思うのです。もしそれでも相手の人が理解してくれなかったなら...。後は時が解決してくれるのを待つだけです。 Man kann nichts machen. (仕方がないのです)。こちらは、誠意を示したのですから...。
ドイツ語では「〜と一緒に」と言う時には、mit を使います。例えば Das Mitglied でメンバー、Die Mitarbeit は協力という意味になります。そして、Das Mitleid では同情、思いやり、あわれみとなります。ドイツ語で同情は、Die Sympathie という言葉もありますが、こちらはどちらかというと、共感、同意などポジティブな意味で使われます。英語の sympathy は、どちらの意味にも使われているようですが、もっと深い意味では compassion が使われるようです。この com はラテン語で「共に」、passion は「苦しむこと」になります。例えば、cooperation が協同組合、協調性、company では仲間、同行です。
少し前に大変話題になったメル・ギブソン監督の映画で、“Passion”という作品がありました。私はこの映画を見ることができなかったのですけれど、キリストの受難、苦しみが、聖書に忠実に描かれていたようです。
人として本当に必要なことは、誰かに compassion することだと思います。自分の気持ばかりを押し付けるのではなく、誰かと気持ちをシェアして行くことが、心を豊かに成長させるのです。
キリストは、私たちの passion を理解して、compassion を持って下さいました。キリストは、私たちの罪を背負って、十字架の上で息を引き取られました。けれどもその後、この世から去って行かれたのではなく、イースターの朝に復活されたました。そのキリストが、いつも私たちの気持ちに寄り添って下さっているのです。キリストこそ、私たちの Der Mitreisende 「同行者」です。
人の痛みが分かる人、その人こそキリストの真の証人とされると思うのです。
【by Tokyoterin - 東京在住の女性クリスチャン】