1. 敵を愛する
「私は熱心な仏教徒です。長年にわたりお寺の檀家総代を務めてきました。しかし、キリスト教にかなわないことが一つあります。それは、『敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい』というキリストの言葉です」
知人の結婚披露宴における来賓の祝辞の中のひと言である。結婚前は仲が良かったのに、結婚後は夫婦げんかが絶えず、離婚の瀬戸際に追い詰められたが、その都度、キリストの言葉を思い出し、妻が幸せになるように真剣に祈り、危機を乗り越えてきたと言う。
聖書における夫婦の基本的関係は、「夫は妻を自分のからだのように愛し、妻は夫を敬い、キリストに仕えるように仕える」(エペソ5:22~33)ことである。
弁護士として離婚の相談を受け、調停や裁判をするにつけ、お互いに愛し合って結婚したのになぜ離婚するのかと、いつも考えさせられる。結婚当初は感謝と喜びにあふれ、仲良く暮らしていても、次第に感激も薄れ、生活が当たり前になってしまうと、相手に対する不平不満が出てくる。
相手の言い分を愛をもって受け入れるよう努力し、お互いが成長していけば、自由で豊かな関係になる。しかし、自分の言い分にこだわり、相手の言い分を受け入れようとしなければ、お互いに窮屈で貧しい関係になってしまう。
これは夫婦関係に限らず、全ての人間関係についても当てはまることだと思う。父なる神の最大の願いは、神の子どもたちが愛し合い、仲良く暮らすことである。
2. 感謝あるのみ
「エイミー!エイミー!エイミー!」。渋谷駅に向かう雑踏の中を歩いていたとき、外国人旅行者と思われる男性が血相を変えて叫んで走ってきた。しばらくして、遠くの方で「パパ!パパ!」と小さな女の子の泣き声が聞こえた。
迷子だと気が付いた通りすがりの女性が、女の子の手を引き、人混みをかき分けながら父親のもとに連れていった。公衆の面前で、親子は抱き合い泣いていた。喜びの感動的なシーンであった。子どもは何があっても親のふところに飛び込んでいけば、全てが解決してしまう。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい」(1テサロニケ5:16~18)と神は求めている。でも、なぜ不幸な事態にまで感謝しなければならないのだろうか。一方が愛し、受け入れても、他方が憎み、拒絶する場合には、関係の修復は困難である。
愛の父なる神が存在し、自分はその子どもであること。救い主イエスが自分と共にいること。助け主である聖霊が自分の内に住んでいること。永遠の滅びから救われ、永遠の命を頂いていること。キリストの豊かな恵みの中に生かされ、聖霊の導きや助けを頂けること。
だから、私たちの日々は、感謝、感謝、感謝・・・以外にはあり得ないのではないかと思う。神に抱かれて喜んで感謝していれば、困難や試練の中でも喜んで耐えることができる。困難や試練を通しても、神は特別な恵みを与えてくださる。
神に感謝し、愛をもって相手の幸せを祈っていけば、こじれた人間関係も修復していく。仮に、修復できず、離婚や別離に至ってしまっても、キリストを信じることの絶大な価値に目覚めた者にとっては、全てを神に感謝し、いつも喜んでいられるのである。
いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。(エペソ5:20)
わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試練に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。(ヤコブ1:2)
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