さて、イエスと共に刑を受けるために、ほかにふたりの犯罪人も引かれていった。(ルカ23:32)
キリストは、群衆の誹謗中傷を赦(ゆる)し、十字架上でののしられても自分を責めることなく、絶えず厳しい状況の中を歩み、人々に仕え続けました。一方で、私たちの信仰生活と人生は、キリストのそれと比較してどうでしょうか。キリストは私たちの中に住まわれています。ですから、このキリストの歩みが私たちを通して現されることが大切です(参照・ガラテヤ2:20)。この地上で日々の生活を豊かに歩み通す4つのステップを、私の体験からシェアします。
1. 人間関係で裏切られ、傷つけられても、あえて苦しむことを選択する
キリストは、ご自分を十字架にかけた相手のためにさえ、赦しを祈られました(参照・ルカ23:34)。ギリシャ語では、この箇所の赦しにも「aphiémi」が用いられています(前回参照)。
私たちにとって何よりも大切なのは、キリストがまず私たちを赦してくださったことを知り、その愛を日常的に体験することです(参照・1ヨハネ4:19)。キリストは、神様に喜ばれない私たちの日々の言動を許し、それに苦しまれているのです。キリストはただ一度、十字架上で人類の罪のために死なれました。それは、私たちの全ての罪のためでした。つまり私たちには日々、キリストによる罪の赦しが必要なのです(参照・ローマ6:10)。この赦しを体験するとき、私たちのうちに人々を赦す愛が満ちあふれるのです(参照・ルカ7:47)。
向かってくるボールを手で制止するように、自分に向かってくる批判を受容せず、その批判によって発生する不快な感情を避けるならば、苦しむ選択をしたとはいえません。向かってくるボールが当たれば痛いですが、そのボールは自分の手の中にはありません。一方で、向かってくるボールを手で制止するならば、今度はそのボールを相手に向かって握りしめることになります(ただし、聖書では心を守るようにも教えられています。その都度、聖霊様にどの御言葉を適用すべきかを導いていただくことが大切です[参照・箴言4:23])。
2. 周囲の人々に否定的なことを言われても、自分を責めることを選択しない
根拠もなく、一方的に謝罪するよう親などに教育されて育った人は、何の理由もなく自分を責める習慣が身に付いてしまっています。しかし、キリストにある私たちは、自分を一方的に非難する必要は決してないのです(参照・ローマ8:1)。
自分はだめな存在だと勘違いし、絶えず自分を責め、追い込み過ぎると、ますますだめな存在だと自分を認識してしまいます。そうなると、周囲の人々にも、必要以上に厳しく当たるようになってしまうのです。
私たちは、キリストにあって神の義なのです(参照・2コリント5:21)。
3. 私たちの人生は常に上り坂
この世では苦難があります(参照・ヨハネ16:33)。苦難のない日々を期待し、日常から逃れたいと感じることもあるでしょう。しかし、聖書の教える真実は、苦しみを受け入れることが、自由への第一歩だということです(参照・ヨハネ8:32)。
つまり、日々の試練を喜びとして捉えることが大切です(参照・ヤコブ1:2~4)。直面していた難しい課題を解決した後、まるで目的を失ったかのようにつまらなくなった経験はないでしょうか。実は、私たちは課題に対してポジティブなエネルギーを発するように創造されているのです。
4. 私たちには相手に仕える使命が与えられている
相手を自分の目的達成のために利用していないでしょうか。神様からの夢やビジョンを達成するという名目で、無意識のうちに、気分を害する相手を除外し、物事を自分の考えや願望で推し進めようとしている姿はないでしょうか。キリストはユダとペテロに裏切られましたが、それを事前にご存じでも、あえて2人を使徒として選ばれました。
相手を自分の満足のために利用するのではなく、その相手に仕えることを選択するのです。キリストは十字架にかけられても仕え続けました。キリストの福音伝道のビジョンは今も引き継がれ、成長し続けています。神様のビジョンは世代を超えるのです。
神様の愛に飢え乾く相手からの不当な言動を赦し続け、世の光、地の塩として(参照・マタイ5:14~16)、日々のチャレンジを喜びとし、キリストのように相手に仕えることを選択し続けましょう。神様が私たちに持たれているご計画は、神様によって推進されるのです。
GOD BLESS YOU!
◇