「わずかだけ蒔(ま)く者はわずかだけ刈り入れ、豊かに蒔く者は豊かに刈り入れます。・・・神は、喜んで与える人を愛してくださるのです」(2コリント9:6、7)
ある男が牧師のところに来て、こう訴えました。「什一献金のことで問題を抱えています。これまで什一献金をささげてきたのですが、年収300万円のとき、30万円をささげることに問題はなかったのですが、その後、転職を繰り返し、今や年収が2000万円にもなりました。年間200万円の献金に大きな困難を覚えています。どうすればいいのでしょうか」
牧師は黙って聞いていましたが「確かに問題ですね。では一緒に祈りましょう。よろしいでしょうか」と言うと、その男も同意したので牧師は祈りました。「愛する主よ、この兄弟は今問題を抱えています。どうかお助けください。主よ、この兄弟の年収を什一献金ができていたころの額に戻してください」
イエス・キリストは言われました。「だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません」「あたなの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです」
また、イエスは「受けるよりも与えるほうが幸いである」とも言われました。「集めること」ばかり考えている人生より「与えること」を考える人生がはるかに豊かであるとイエスは言われたのです。
1982年1月13日、ワシントンのポトマック川の橋にフロリダ航空737便が激突しました。78人の命が失われました。吹雪の中で長時間滑走路に待機させられた飛行機は、翼に氷が付着して離陸に失敗したのです。
自力で水面に浮かび上がってきた人はほんの一握りの人だけで、大多数の乗客は飛行機と共に沈みました。救助活動ははかどりませんでした。最悪の天候と夕方のラッシュアワーで、橋の上は車でいっぱいでした。
一機のヘリコプターが救助に飛び立ちました。操縦者はジーン・ウインザーとドン・アッシャー。氷の川には5人の生存者が漂っていました。
ヘリコプターは口ひげをたくわえた中年の男性にロープを投げました。ロープは彼の腕の中に落ちました。するとその男性は、そのロープを自分の体に巻き付ける代わりに、そばにいた女性に渡しました。ヘリコプターはその女性を救助しました。
戻ってきたヘリコプターは、もう一度その男性のところにロープを投げました。すると、その男性は今度もまたそのロープをそばにいた人に渡しました。他のヘリコプターも2人の人を救助しましたので、浮かび上がった5人中4人は助かりました。
そしてヘリコプターが3度目にその中年男性のところに戻ってくると、彼の姿はもうありませんでした。彼はとうとう力尽きて、冷たい氷の川底に沈んでいったのです。自分が助かるチャンスを2度も他の人に与えたのです。この男性は、アトランタの銀行役員のオーランド・ウィリアムズ・ジュニアさんです。
この時、ヘリコプターで救出活動をしていたジーン・ウインザーさんは、後に記者会見で言いました。「私は忘れることができません。2人目の人にロープを渡したとき、彼は私をジーッと見上げました。その青白く震えた顔が、今度来るときは自分はもういないかもしれないと訴えていました」。そう言うと、人目をはばからず、その場に泣き崩れたのです。
人間は高貴なものに触れるとき、言葉を失うのです。人間は自己犠牲の精神に触れるとき、感動するのです。
もちろん人生には、こんな劇的な場面はそうそうあるものではありません。しかし、日常生活の中での細やかな心配りや親切の中にも、数え切れないほど与える精神を発揮するチャンスはあるのです。
相手の立場に立って、自分が少し損をしてみる。その中で、自分の命が豊かさを体験することに気が付くはずです。
第二次世界大戦後の欧州では、多くの戦争孤児が生まれました。ある日、一軒のパン屋のショーウィンドウに顔をひっつけるようにして一人の少年がのぞき込んでいます。そこに一人の米兵がジープでやって来て中に入り、パンを一抱え買って出てきました。
その将校は少年の顔を見ると、包みごとそのパンを少年に渡して立ち去ろうとしました。すると少年は、その将校のコートの裾を引っ張って小さな声で聞きました。「あの・・・もしかしてあなたは神様ですか?」
私たちは、与えるときに豊かにされ、神に似た者とされるのです。なぜなら神は「実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」方だからです。
◇