今回は、15章1~25節を読みます。
ボンヘッファーの著作を手引きとして読む
1「私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である。2 私につながっている枝で実を結ばないものはみな、父が取り除き、実を結ぶものはみな、もっと豊かに実を結ぶように手入れをなさる。3 私が語った言葉によって、あなたがたはすでに清くなっている。4 私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、私につながっていなければ、実を結ぶことができない。
5 私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである。6 私につながっていない人がいれば、枝のように投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。
7 あなたがたが私につながっており、私の言葉があなたがたの内にとどまっているならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。8 あなたがたが豊かに実を結び、私の弟子となるなら、それによって、私の父は栄光をお受けになる。
このぶどうの木の講話において、イエス様は教会の在り方を示されています。教会とは、「私はぶどうの木」だと言われるキリストの教会であり、信者はそれに枝として連なっているのです。しかし、それは幹から分離された枝なのではなく、幹に連なっている枝であり、同じぶどうの木の一部なのです。
パウロはこれと同じことを、「私たちも数は多いが、キリストにあって一つの体であり、一人一人が互いに部分なのです」(ローマ12章5節)と言い、教会を「キリストの体」(他に第1コリント書12章12~27節)と表現しています。教会は「キリストの木」であり、「キリストの体」であり、私たちはその一部なのです。
このように、ヨハネ福音書15章とパウロ書簡の内容は、重なっているところが多いのですが、1906年生まれの神学者ディートリッヒ・ボンヘッファーが、ベルリン大学神学部に在学していた1926年に著した『ヨハネ福音書十五章とパウロ』に、このことが詳述されています。そしてその論考は、『ボンヘッファー聖書研究(新約編)』の19ページ以下に書かれています。
キリストにつながっている枝は実を結ぶのですが、ボンヘッファーによれば、それは「伝道の結果の意味においてではなく、聖化の意味においてであり、すなわち、『義の実に満たされて』という言い方が使われる通りである」(同書24ページ)のです。そして義の実とは、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(ガラテヤ5章22節)なのです。さらに父なる神様は、その実が豊かに実るように、手入れをしてくださっているのです。
イエス様の愛にとどまる
9 父が私を愛されたように、私もあなたがたを愛した。私の愛にとどまりなさい。10 私が父の戒めを守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、私の戒めを守るなら、私の愛にとどまっていることになる。
「私につながっていなさい」(4節)の「つながる」は、ギリシャ語では「メノー」です。この語はこれまでにも頻出しましたが、「とどまる」と訳され、「イエス様の愛のうちにとどまる」という内容で伝えられてきました。ですから、「私につながっていなさい」とは「私(イエス様)の愛のうちにとどまっていなさい」ということです。
しかし、この9節と10節では、「メノー」が再び「とどまる」と訳されています。4節の「つながる」と9節と10節の「とどまる」は、原典では同じ語です。ちなみに、田川建三訳『新約聖書 本文の訳』では、4節、9節、10節はいずれも「留まる」と翻訳されています(同書252ページ)。
ぶどうの木は、「キリストの体」である教会を指しており、枝としてそこにつながっていることは、キリストの体の一部とされ、その愛のうちにとどまっていることを意味しているのです。
14章の最後の31節で、弟子たちに対する話は一度終了し、イエス様は、捕らえられるためにキドロンの谷の方面に向かわれます。これまでお伝えしているように、15~16章は、13~14章を復唱しています。両者は、伝え方に相違があるからこそ、似た内容のメッセージがあえて復唱されているのではないかとも思えます。
ところで前述のボンヘッファーの論考は、彼が弱冠20歳の時のものですが、ヨハネ福音書15章と、パウロ書簡の教会論に関する箇所との比較検討がなされているところが注目されます。ボンヘッファーは、ヨハネ福音書15章をパウロ書簡と比較することによって、より教会論的な視点で読んでいるのです。私も、15章の、特にその1~17節は、イエス様の告別の説教というよりも、編集したヨハネ福音書の記者が、イエス様の言葉を教会論的に展開しているのではないかと考えています。
「新しい戒め」の教会論的な復唱
11 これらのことを話したのは、私の喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。12 私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の戒めである。
ここでは、13章34節で述べられている「新しい戒め」が復唱されています。「互いに愛し合いなさい」という言葉が、より教会論的に述べられているのです。イエス様とつながっているという「縦の関係」を基にして、「枝と枝」の関係、言い換えるならば、「体の一部と一部」の関係(第1コリント書12章12~27節)という、イエス様に愛されている者同士の「横の関係」において述べられているのです。
ボンヘッファーが言う「聖化の意味における義の実を結ぶこと」とは、ぶどうの木であるイエス様の愛にとどまり、互いに愛し合うことにおいての「実り」を意味しているのでしょう。私の所属する日本基督教団の信仰告白には、「この変らざる恵みのうちに、聖霊は我らを潔めて義の果(み)を結ばしめ、その御業を成就したまふ」というくだりがありますが、これは私の大好きな箇所です。「聖化と実り」の大切さを告白している言葉です。
友と呼ばれるイエス様
13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。14 私の命じることを行うならば、あなたがたは私の友である。15 私はもはや、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。私はあなたがたを友と呼んだ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。
16 あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。あなたがたが行って実を結び、その実が残るようにと、また、私の名によって願うなら、父が何でも与えてくださるようにと、私があなたがたを任命したのである。17 互いに愛し合いなさい。これが私の命令である。」
イエス様はここから、弟子たち(ひいては読者一人一人)を「友」と呼び始めます。ですから、13節の「友のために自分の命を捨てる」とは、イエス様が十字架にかけられることであって、私たちに対して命を捨てることを求めておられるわけではありません。イエス様が、友である私たちのために命を捨てられたことは、何にも勝る大きな愛であるということが伝えられています。
だから、その大きな愛によって愛された私たちは、イエス様が愛されたように兄弟姉妹を愛することが求められています。これは新約聖書で一番大きな教えです。イエス様は、律法や預言者を廃止するためではなく、それらを完成するために来られたのですが、この「完成」とは、十字架で示された愛を、律法と預言書に加えることであったのです。
この世の罪
18 「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前に私を憎んだことを覚えておくがよい。19 もしあなたがたが世から出た者であるなら、世はあなたがたを自分のものとして愛するだろう。だが、あなたがたは世から出た者ではない。私があなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。
20 『僕は主人にまさるものではない』と、私が言った言葉を思い出しなさい。人々が私を迫害したなら、あなたがたをも迫害するだろう。私の言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。21 しかし人々は、私の名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。私をお遣わしになった方を知らないからである。
22 私が来て話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない。23 私を憎む者は、私の父をも憎む。24 誰も行ったことのない業を、私が彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見て、私と私の父を憎んでいる。25 しかし、それは、『人々は理由もなく、私を憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。
ここからは、ぶどうの木の講話で愛を話されたのとは反対に、憎しみについて語られています。ヨハネ福音書ではこれまで、イエス様がユダヤ人たちに憎まれたことを伝えていましたが、ここで伝えられている憎しみは、必ずしもユダヤ人たちのイエス様に対する憎しみではないように思えます。
ここでは世の憎しみが伝えられているのであり、それは愛であるイエス様に対立するものでしょう。それは、世が罪の中にあることを示しているといってよいと思います。イエス様が互いに愛することを説かれたのに、私たちはそれをすることが難しい現実の中を生きています。
牧会する教会で、しばしば「互いに愛し合いなさい」というイエス様の新しい戒めを語るのですが、「そう言われてもなかなか難しい」と言われます。また私自身、語っていながらも、「できることではないかもしれない」という、ジレンマを感じることがあります。
22節に「私が来て話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう」とあります。「彼ら」とは特定の誰かではなく、罪そのものであるように思えます。イエス様がこの世に来られたことによって、罪が罪として明らかにされ、憎しみ合う私たちの現実が示されたのであるとも思えます。
一方で「互いに愛し合いなさい」という新しい戒めが語られ、もう一方で「それが難しい」という世の現実が語られているのだと思います。弁護者である聖霊は、そのような現実の中に遣わされたともいえましょう。次回はそういった観点で、弁護者である聖霊を送る約束の言葉についてお伝えしたいと思います。(続く)
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