聖書は「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」と語ります。「自分を愛する」とは、等身大の自分をあるがままで受け入れ、許し、神が私を見ておられるように愛することです。
それを超えて自分を愛するとしたら、思い上がりであり、傲慢(ごうまん)です。それ未満で自分を卑下するならば、これも思い上がりであり、謙遜傲慢です。神が「わたしはあなたを愛している」と言われたら、「はい、分かりました。その通り信じます」と応じ、自分に対して神が見ておられるように接することです。
今日、神と私自身に認識のズレがあるとしたら、そのズレを「罪」といいます。そのズレを改め、修正することを「悔い改め」といいます。健全に「自分を愛する」なら、愛した分だけ、他者を愛しやすくなります。自分を拒否し、嫌うということは、自分と似た他人を拒否し、嫌わざるを得なくなります。
今日、どうしても受け入れられず、苦手であったり、嫌いな人がいるとしたら、その人は、あなたと同じ要素を持っているのかもしれません。その相手を拒否し、変えようとする前に、神が、私自身をあるがままで愛しておられる事実を信じ、受け入れ、イエス様を通して、神との関係を修復してください。
「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています」(ローマ5:1)
神はあなたを愛しておられます。それを理解できないかもしれませんが、それが歴然とした事実なのです。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ書43:4)
「自分を愛する」とは、神が私を愛してくださっているのと同じように、自分を見、接していくことです。しかし、それを努力でするのではなく、祈りと信仰によって応答し、受け入れましょう。この体験があなたを幸せにし、この真理があなたを本当の意味で自由にしてくれるはずてす。
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