夫の右上顎から目の下まで、そして首筋のリンパをも切り開く手術が行われた。手術は8時間半におよび、夜の9時近くに、無事に終わった。
ICUで横たわる夫の姿に、体だけは丈夫だった今までの夫には感じたことのなかったいとおしさが込み上げた。それから今日までは、毎日病院に通っている。
面会時間は30分と限られているが、夫が日に日に回復してゆく様子を見て、神様の創られた人間の体の神秘を感じる。傷を治すために痛み、腫れ、あざができて、熱も出す。しかし傷跡はふさがろうとし、血も止まろうと全身が生きるためにもがくのだ。自然治癒とは、まさに神業である。
顔に大きな傷ができ、まだ抜糸前の夫の顔は過酷な手術を物語り、それを耐え抜いた命のあえぎが聞こえるようだ。外ではようやく桜が満開だった。毎年夫と共に桜の名所に出かけていたが、今年は夫の病院への行き帰りの道に見る桜が、私のお花見となった。
血がにじんで、あざだらけの夫の顔は、表情もしばらく作ることはできない。発語も難しいが何とか聞き取れる声で、一生懸命話そうとする。「無理に話さなくてもいいから」と言い、握りしめた私の手を、力強く握り返す。ベッドの端に座ってただじっと時間を過ごす。
義両親には毎晩、夫が帰ってきたときのためのとろみ食やきざみ食を作っては、感想を聞かせてもらっている。毎日へとへとで、夜7時過ぎには倒れるように眠ってしまう。
夫のいない小さな家で、心細くなることもある。でも、今夫は一生懸命生きている。私も一生懸命生きている。切ないけれど、つらくない。悲しいけれど不幸じゃない。涙が出るけど幸せだ。
真の喜びとは、苦難の中にこそあるものなのではなかろうか。命を懸けて守りたいものがあり、命を懸けて支えたい人がいて、命を懸けてやり遂げたいことがあり、命を懸けて生きる時がある。命の淵で震えながら歩む苦難の時こそ、真の喜びと共にあるのではなかろうか。
そして苦難こそ、イエス様に近づくときである。イエス様は大いなる苦難を生きられた。神の子でありながら、その生きざまを表すように厩(うまや)でお生まれになった。神の子であられながら、辱しめられてののしられた。全ての人たちに裏切られ、弟子たちまでにも逃げられて、無実の罪でむち打たれ、十字架につけられて、私たち人間の罪の贖(あがな)いのために命をささげられた。
イエス様は私たちの友となってくださるお方だ。私たちも苦難を通らなければ、どうやって人の痛みが、友の痛みが分かるであろうか。私たちが苦難を通るとき、それはイエス様に一歩近づける喜びの道であるはずだ。だからこそ、苦難を喜ぶようにと、試練を喜ぶようにと、聖書に何度も書いてある。
だから、私は今、苦しいし、寂しいし、涙も出るけれど不幸じゃない。喜びにあふれていると言えてしまうときもある。生きることは痛い。命は痛い。愛は痛い。そしてそこに、イエス様との命の交わりがあり、愛の喜びもあるのだ。
毎日往復3時間かけて夫のお見舞いに行き、義姉からもらった天然のガーゼをお湯に浸して、術後から洗えないでいる顔や頭をぬぐってやる。切開した痕を避けて、あざだらけの夫の顔を痛くないように気を付けながら丁寧にぬぐう。うまく開かない口で痰にのどを詰まらせながら一生懸命感謝を伝えてくれる。
傷病者は痛々しくそれを醜いと思う者もあるかもしれない、清潔も保てないこともある。傷跡や膿から不潔なにおいを発することもある。命はきれいなばかりではない。
夫の顔をぬぐいながら、十字架のイエス様を思った。イエス様であったって、きれいなばかりではなかったろう。十字架から降ろされたイエス様を引き取ったといわれるアリマタヤのヨセフは、どんなに悲しく、そして愛によって美しい時を過ごしたのだろうか。
みじめに打ち捨てられ、残酷の限りに傷つけられ、死んだイエス様に香油を塗り、亜麻布を巻いた。その御体にはどれほどの傷があったことだろうか。その傷は、人間の罪を表すほどにおどろおどろしかったかもしれない。鼻を覆いたくなるようなにおいも漂ったに違いない。その御体をいとおしみ、香油を塗って亜麻布を巻いた。
アリマタヤのヨセフがイエス様に愛を示したように、美しい愛を夫に示せる者になれたなら・・・そんなことを考えていた。美しい愛のもとには、美しい時間が流れるのだから。
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ところざきりょうこ
1978年生まれ。千葉県在住。2013年、日本ホーリネス教団の教会において信仰を持つ。2018年4月1日イースターに、東埼玉バプテスト教会において、木田浩靖牧師のもとでバプテスマを受ける。結婚を機に、千葉県に移住し、日本バプテスト連盟花野井バプテスト教会に通っている。フェイスブックページ「ところざきりょうこ 祈りの部屋」。※旧姓さとうから、結婚後の姓ところざきに変更いたしました。