「あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁(はり)には、なぜ気がつかないのですか」(マタイ7:3)
一人の紳士が道を歩いていると、道端で少年たちが一匹の子犬を囲んで何やらもめています。紳士は、子犬がいじめられているのではと気になって近づき、「何をしているの?」と尋ねると、一人の少年が答えました。「みんな、この捨て犬を自分が飼いたいって言うんで、一番大きなうそをついた子がもらうことにしたんだ」
紳士は言いました。「君たち、うそつき競争なんてダメだよ。うそは悪いことなんだよ。オジさんは、君たちの歳の頃にはうそをついたことなんてなかったよ」
一瞬、沈黙が流れました。少年たちが納得してくれたとその紳士が思ったとき、一人の少年が大きなため息をついて言いました。「負けたよ、オジさんのうそが一番だよ。この犬はオジさんのものだよ」
私たちは人の罪や失敗、欠点をすぐ責めやすい者ですが、自分自身の中に同じ罪や失敗、欠点があっても、なかなか気付かないものです。イエス・キリストは、そんな人間の持っている盲点に光を与えるのです。
ある日、イエスが民衆に教えている現場に、律法学者たちが姦淫の現場で捕らえられた一人の女性を連れて来て、イエスに言います。「この女はモーセの律法では石打ちの刑で殺すように言っているけれど、あなたのご意見を伺いたい」
もしイエスが「赦(ゆる)してやりなさい」と答えられたら、律法学者は「イエスはわれわれが大切にしているモーセの律法を守らなくてもいいと言っている」と告発できます。その結果、民衆がイエスから離れていくことを期待できます。
逆にイエスが「モーセの律法に従って罰しなさい」と言えばどうなるのか。当時ユダヤの国はローマ帝国の支配下にあったため、「モーセの律法」に従って罰することはローマ法を無視することで、ローマに対する敵対行為と見なされたのです。
イエスがどう答えても、そこに罠が仕掛けられていました。その時、イエスは身をかがめて、指で地面に何かを書き始めました。何を書かれたのかは分かりませんが、私はむしろ「書く」という動作そのものに意味があったと考えます。
姦淫の現場で捕らえられた女に、民衆の視線が集中しています。その目は怒り、軽蔑、あざけり、好奇心に満ちていたことでしょう。この女性はその刺すような視線の真中で、死の恐怖と恥ずかしさの中に、ただ一人置かれているのです。
しかしイエスが地面に何かを書き始めると、民衆の視線はその女性から離れ、イエスの指先に向けられたと思います。イエスはこの行為によって、その女性を民衆の視線から解放されたのです。
これを「視線の肩代わり」といいます。ここにもイエスの人に対する愛や優しさを見ることができます。しかし、イエスの行動はここで終わりません。イエスは問い続けてやめない人々に対して言われました。「あなたがたのうちで、罪のない者が最初に彼女に石を投げなさい」
しばらく沈黙が流れた後、年長者たちから始めて、一人一人出ていったのです。イエスの言葉は、一人一人を自分の良心と向き合わせたのです。そして、そこにただ一人残された女性にイエスは言います。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません」
イエスはこの女性が二度と同じ罪を繰り返さないことを確信なさったのです。なぜなら民衆が皆去った後に、彼女もその場を急いで離れることが可能だったはずです。しかし彼女は、自分の意志で残ったのです。
イエスの言葉に、そこにいた全ての人々は自分の罪を示されて良心の呵責(かしゃく)を覚え、そこから去っていきました。しかし本当の悔い改めとは、良心の呵責に耐えかねてこそこそとイエスのもとを去ることではなく、その罪を赦してくださるイエスの足元に留まることなのです。
やがて私たちも地上生涯を終えたとき、ただ一人神の前に立つ時が来ます。その時に「わたしはあなたを罰しない。あなたの罪は赦されている」というイエスの宣言を聞く人は幸いです。
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