「五蘊盛苦(ごうんじょうく)」の「五蘊」とは、物体の「色(しき)」、感覚の「受(じゅ)」、考えの「想(そう)」、意志の「行(ぎょう)」、認識の「識(しき)」の5つを指します。私たちの欲望は果てしなく、一つが満たされても、また新たな欲求が生じるものです。欲望は、どこまでいっても満たされることはなく、その結果、苦しみ続けることになります。
「求不得苦(ぐふとくく)」が「求めても得られない苦しみ」なのに対して「五蘊盛苦」は、人間の心と体から生じる欲望であり、それに執着することで生じる苦しみを指します。それらの欲求を満たしたところで満足できるものではなく、果てしなく求め続け、果てしなく苦しみが続くものです。
宗教や哲学も「五蘊盛苦」の前には無力です。その根本的な解決は、人間本来の状態である、神と共に生きる状態に立ち戻るほかにはありません。
切り花はどんなにきれいでも根から切られているのでやがて枯れるのと同じように、人は神から離れた結果、やがて死にます。どうしたら、もう一度神とつながることができるでしょうか。神との関係を修復し、回復させ、救うために遣わされた救い主を通して以外に道はありません。
「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません』」(ヨハネ14:6)
仏教で教える「四苦八苦」は、人が生きている限り避けられない苦しみを指します。四苦プラス八苦で十二苦ではなく、生苦、老苦、病苦、死苦の四苦に、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦の四苦を足して八苦です。
本当の意味で全ての苦しみから解放されるのは、墓場に行ってからです。しかし、イエス様を通して神と一体になるならば、罪が赦(ゆる)され、神の子とされ、永遠の命が与えられて天国に入ることができます。
その救いが確定したと知った人生と、どうなるかは死んでみないと分からない人生では、大きな違いが生じます。クリスチャンの喜びは、救いの確信が土台となっています。その救いはどうやったら手に入れることができるでしょうか。信じて受け取ることによってのみ、頂くことができます。
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです」(エペソ2:8、9)
神の恵みと信仰によって救いを受けることができます。その結果、四苦八苦に対する根本的な救いと解放を手に入れることができるのです。ここに答えがあります。この答えを受け取ってくださり、その喜びと平安を抱きながら生きていきましょう。
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