「愚か者は心の中で『神はいない』と言う。彼らは腐っている。忌まわしい不正を行っている。善を行う者はいない」(詩篇53:1)
老齢のドライバーが今、高速道路をぶっ飛ばしています。そこに、携帯電話に奥さんからの連絡が入りました。
「あなた。今ラジオを聴いていたら、あなたが走っている高速道路を猛スピードで逆走している車が一台あると言っていたから気を付けてね」
すると彼は言います。「逆走しているのが一台だけだって?とんでもない、オレを目がけて逆走車が何台も何台も走っているぞ!」
おじいさん!あなたが逆走車です!!
人は自分を正しいとする立場に置いてしまうと、大切な真実や事実を見失ってしまうことがあります。
世の中には無神論を主張する人もいますが、「無神論」は論理的にも科学的にも証明されたことがないので、単なる一つの考え方といってもよいでしょう。人が創造者なる神を信じる立場を捨てて、無神論や進化論の立場を取るなら、その人生に何が起こるでしょうか。
1)自分の存在の意味や目的を失います
私たちの周りには、人の手によって作られたものがたくさんありますが、その一つ一つに作られた意味や目的があります。しかし、ただ偶然に存在したものには本質的な意味や目的はありません。
2)自分の尊厳性の根拠を失います
ダイヤモンドがなぜ高価かといえば、それを尊いと認める人間がいるからです。人間が存在しなければ単なる石ころです。人間も同じです。「わたしの目にあなたは高価で貴い」と言われる創造者なる神がおられるので人は尊い存在なのです。
3)自分の道徳の絶対的な基準を失います
ドストエフスキーが言ったように「神がいなければ全てが許される」のです。その結果、個人個人の主観や欲望、気分、好みが善悪の基準になってしまいます。神を否定すると、道徳的レベルが必ず下がります。
4)自分の永遠性を失います
死後の希望や愛する者との再会の喜びを失います。その結果「自分の人生とは2つの偶然に挟まれた偶然の連続に過ぎないもの」になってしまいます。
アドニラム・ジャドソン(1788〜1850)も、若い時はキリスト教に反抗していた時代がありました。ジャドソンは頭が良く、3歳で本が読めるようになり、12歳でギリシャ語の翻訳ができ、16歳でブラウン大学に入学しました。
大学時代にジェイコブ・イームズという同級生に出会い、彼の無神論的宗教観に影響を受け、両親から受け継いだイエス・キリストへの信仰を捨てました。
1807年に大学を首席で卒業するときには、彼の夢は俳優か作家になることでした。そして、ニューヨークに出て行きました。
しかし、ジャドソンはその夢に挫折して、マサチューセッツ州プリマスにある実家に帰る決心をしました。その途中、小さな宿で一夜を明かします。その夜、彼は一睡もできませんでした。というのも、隣の部屋の宿泊者が一晩中苦しそうにうめいたからです。
翌日、そのことを宿屋の主人に尋ねました。「隣の部屋の老人はどうされましたか」。主人は「今朝早く亡くなりました。しかし老人ではなく、あなたと同じ年頃の青年です」
「その人の名前は何ですか」「ジェイコブ・イームズさんです」。ジャドソンは、その名前を聞いてブルブル震えました。神を否定した人生の結末を見たのです。そして、ジャドソンは悔い改めて神の元に立ち帰り、やがてビルマへの宣教師として遣わされ、大きな業績を残したのです。
人がイエス・キリストから離れたら、実に多くの大切なものを失うことになるのです。イエス・キリストにある人生の豊かさを味わいながら人生を歩みたいものです。
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