暗くうっ屈した世界に、突然舞い降りてきた喜びの天使。パレアナという身寄りのない少女が考え出した「喜びの遊び」は、全米から世界へ広がり、多くの人々に喜びを与え続けている。小説『少女パレアナ』は、「いつも主にあって喜びなさい」(ピリピ4:4)という聖書の教えを基盤としていることでも注目された。
作品について
1913年にこの小説が出版されると、たちまちパレアナは世界のアイドルになった。その人気がどれほど大きなものであったのかは、至る所で人々の話題の中心となり、喫茶店にもホテルにも商店にも「パレアナ」という名前がつけられたことでも想像できる。「パレアナをお読みになりました?」 これが、当時の主婦のあいさつであったといわれている。
作者について
エレナ・ホグマン・ポーターは、1863年5月23日、米ニューハンプシャー州リトルトンに、フランシス・ホグマンとルエラ・ホグマンを両親として生まれる。エレナは生まれつき虚弱体質であったため、高校中退後は体力づくりに専念した。そして健康を回復すると、ニューイングランド音楽院に入学。24歳の時、ジョン・ポーターと結婚する。
それから25年後、エレナは突然小説を書き始め、『潮流の転回』を出版。翌年その続編を出す。1911〜1912年、『ミス・ビリー』『ミス・ビリーの決心』を出版。明るいロマンスで好評を博す。1913年『少女パレアナ』『パレアナの青春』を出版すると、一躍その名を知られるようになった。
強い信念と喜びを基調とするこの作品は、たちまち米国全土で人気を集め、すさまじい売れ行きを示した。この作品は週刊誌「クリスチャン・ヘラルド」に毎週連載され、続いて単行書になった。パレアナの評判が高まるにつれ、辞典にも「パレアナ」が普通名詞として載せられるようになり、「ポーター夫人は新しい言葉を辞典に加えた」と言った評論家もいた。
1920年に57歳で没したが、その年に書いた『スウ姉さん』は同じような名作となり、高い評価を得ている。ポーター夫人の死後に短編集が出版されたが、こちらは『少女パレアナ』『パレアナの青春』ほどの人気は得られなかった。
あらすじ
米バーモント州ベルデングスヴィルに住む裕福なミス・パレー・ハリントンは、亡き姉ジェニーとその夫ジョン・フィテア牧師の遺児、11歳になるパレアナを引き取ることになった。人嫌いで気難し屋のミス・パレーは、日頃何かといら立つことが多く、家政婦ナンシーやその他の使用人にそれをぶつけていた。
この日——6月25日の夕方、いよいよパレアナがベルデングスヴィル駅に到着するので、ナンシーと馭者(ぎょしゃ)のティモシーが迎えに行くと、栗色の髪に麦わら帽子をかぶり、赤いギンガムの格子柄の服を着た元気な少女が飛びついてきて、この町に来られたのがうれしいと言うのだった。
パレアナは不思議な少女だった。殺風景な屋根裏部屋に追いやられても素晴らしい景色が見渡せる部屋がもらえてうれしいと言うし、パンと牛乳だけの食事しか与えられなくても、それを喜ぶのだった。そんなパレアナが大好きになったナンシーが、なぜどんな時にも「うれしい」と言って喜べるのかと尋ねると、パレアナは亡き父と一緒に考えた「喜びの遊び」を彼女に教えてくれたのだった。
ミス・パレーは貧しく病気がちのスノー夫人の所に週1回、「肉のゼリー寄せ」を持っていくことにしていたが、パレアナはそれを自分にやらせてほしいと頼み、スノー夫人を見舞った。そして、夫人の黒くてカールしている髪がとても美しいと言い、きれいに結い直してなでしこの花を一輪飾ってあげるのだった。夫人は自分には丈夫な手も足もあることを感謝し、明るい気持ちで過ごすようになった。
この帰り道、パレアナがペンデルトンの丘近くを歩いていると、黒ずくめの服にシルクハットをかぶった大柄の男と出会った。彼はジョン・ペンデルトンと言い、丘の上に一人で住んでいた。人嫌いであったために人と話をしたことがないとうわさされていたが、パレアナが声を掛け、いろいろと話をするうちに少しずつ憂うつな気分も晴れ、変わっていくのだった。
パレアナは新しい暮らしに慣れていくに従って、いろいろな人と友達になった。そんなある日、彼女はどこからか捨て猫を拾ってきた。また別の日には、捨て犬を拾ってきた。それから三度目に何と身寄りのないジミー・ビーンという11歳の少年まで連れてきてしまった。これにはミス・パレーははっきりと拒絶したので、パレアナは教会の婦人会の人たちに相談に行った。ところがここでも拒絶されたので諦めるしかなかった。
その帰り道のこと。丘の道を行くと、犬が鳴いて駆けてくる。その様子がただ事ではないので行ってみると、いつか会ったあのジョン・ペンデルトンが倒れていた。足の骨を折ったようだ。歩けないので玄関の鍵を開けて医者を呼んでほしいと頼まれたパレアナがその通りにすると、間もなくチルトン医師と担架を持った3人の人がやって来て、彼を屋敷に運んでいった。このことがあって以来、パレアナは何度かチルトン医師と会って話をするようになり、大の仲良しになったのだった。
9月になると、パレアナは学校に入学した。そして、すぐにたくさんの友達ができ、楽しい毎日が始まった。一方、ジョン・ペンデルトンとは度々訪問するうちにますます親しくなっていった。そんなある日、ペンデルトンは彼女に自分の子どもになって一緒に暮らさないかと言う。そして自分は昔、ある女性を愛してここで一緒に暮らしたいと思ったのだが、彼女は別の男性を愛して一緒に外国に行ってしまった。そしてその女性こそ、パレアナの母親であることを告げる。パレアナは、ペンデルトンの申し入れをうれしく思ったが、自分が離れていったら叔母のミス・パレーが寂しく思うだろうと考え、申し出を断った。その代わりに引き取り手のない孤児ジミー・ビーンを養子にしてほしいと頼み、次の土曜日に彼を連れてくる約束を取り付けたのだった。
同じ頃、牧師のポール・フォードは悩みを抱え、説教の下書きも作れずに丘の小道を歩いていた。教会中でもめ事が多く、どのように対処していいか分からずにいた。その時、目の前にパレアナが現れる。そして、自分の亡き父親もよく教会のいろいろな問題で苦労していたと語って慰める。そして言うのだった。「でもお父さんは、いつもうれしいと言ってましたわ。聖書の中には『喜びなさい』という言葉が800もあるんですって」。そしてパレアナは、父親と始めた「喜びの遊び」をフォード牧師に教えてあげたのだった。次の聖日、フォード牧師は「いつも喜んでいなさい」という題で素晴らしい説教をしたのだった。
そんなある日、とんでもない悲劇が起こった。パレアナが学校から帰る途中、車にぶつかり交通事故に遭ったのである。気を失った彼女は自宅に運ばれ、すぐにウォーレン医師の診察を受けるが重傷だった。ミス・パレーはウォーレン医師の他に別の医者を呼ぶことを決めたが、パレアナがそう願っても決してチルトン医師を呼ぼうとしなかった。
パレアナの事故を知って、町中の人が心配し、心を痛めていた。そんなある日、ジョン・ペンデルトンがミス・パレーを訪ねてきて言う。「パレアナさんにお伝えください。私はジミー・ビーンを養子にいたしましたと」。また、スノー夫人の娘ミリーもやって来て、母が今では病気とも楽しく付き合うことを覚え、明るい部屋の中で編物に夢中になっていると感謝して帰っていった。人嫌いになって世を避けて生活していたベントン夫人も、幼い娘を亡くして以来立ち上がれずにいたターベル夫人も、また夫と離婚寸前で、子どもたちのことで悩んでいたベンソン夫人も、皆パレアナの「喜びの遊び」で救われ、新しい人生を歩むようになったと感謝するのだった。ミス・パレーがこんなにも多くの人の生きがいになっている「喜びの遊び」とは一体何なのかとナンシーに尋ねると、ナンシーは初めてその遊びの由来について語ったのだった。
そんなある日、ジョン・ペンデルトンのもとにチルトン医師が訪ねてきて言った。「あの子を診察してみたいんだ。自分の大学時代の友人が最近、治療に成功した症例と大変似ているように思うから、もしかしたらパレアナも歩けるようになるかもしれない」。「すぐに行きたまえ」とペンデルトンは言ったが、チルトン医師は首を振り、実はミス・パレーとは昔些細なことで仲たがいしたので自分が訪ねていっても中に入れてくれまいと言うのだった。
このやりとりを窓の下で聞いていたのが、ペンデルトンの養子になったジミー・ビーンだった。彼はミス・パレーに会いに行って言うのだった。「パレアナがもう一度歩けるようになるためだったら、おれ何でもするよ。チルトン先生は、もしかしたらパレアナが歩けるようになるかもしれないから見せてくれって言うんだ。でも、叔母さんが中に入れてくれないんだって。だからさ、そういう気持ちを捨てて会わせてやってくれよ」
ようやくミス・パレーは決心し、自らチルトン医師と会い、パレアナのために頭を下げて頼んだのだった。このことから万事が好転し、パレアナの目の前に素晴らしい未来が開けることになる。チルトン医師とミス・パレーは結婚することになり、チルトン医師の友人である整形外科の権威者の病院に入院したパレアナは、ようやく毎日少しずつ歩くことができるようになったのだった。
見どころ
「ええ、そうなのよ。あたしがね、お人形を欲しがったもんで、お父さんが教会本部へ頼んでくだすったんですけどね、お人形がこないで松葉杖がきちゃったの。(中略)そのときから遊びが始まったの。(中略)ゲームはね、なんでも喜ぶことなのよ。喜ぶことをなんの中からでもさがすのよ。(中略)杖を使わなくてもすむからうれしいの。ね、わかったでしょう——(中略)それからずうっとやってるのよ」(5「ゲーム」42〜43ページ)
5分間、パレアナは器用な手つきで、くびのまわりの毛をかきあげ、枕をたたいてふくらませて、気持ちよく休めるようにしました。そのあいだに病人は顔をしかめてパレアナのすることをばかにしていましたが、そのうちだんだん気分が引き立ってきて陽気になるのをどうすることもできませんでした。「そら、できました」と、最後の仕上げにはベッドの側にあったなでしこの花を一輪つまんで黒い髪にさしました。(8「パレアナの訪問」73ページ)
「お父さんは、うれしいといつでも言ってましたけど、たいていそのあとで、聖書に喜びの句がなかったら、1分だって牧師なんかしていられないって言いました。(中略)ですけど、『主にありて喜べ』とか『大いに喜べ』とか『喜びて歌え』とかそんなのがたくさんあります。(中略)お父さんが特別いやな気持ちの時に数えましたらね、800ありましたって」(22「お説教と薪の箱」195ページ)
「チルトン先生もそうおっしゃってるのよ——家庭をつくるのは婦人の手と心か、または子供の存在だって」 パレー叔母さんはぎくっとしました。(中略)「それで、あたしはなぜそれを——婦人の手と心のある、家庭をお持ちにならないのと聞いたの。(中略)先生はとても——とても悲しそうだったわ」「先生は——なんておっしゃたかい?」 叔母さんは聞いてはいけないととめるなにか胸の中の力に逆らってたずねたかのようでした。「しばらくはなにもおっしゃらなかったわ。それから、たいそう低い声で、それは求めても必ず得られるとはかぎらないものだとおっしゃったの(中略)そのあと別の日に先生はある婦人の手と心を得られるものなら、なにを犠牲にしてもいいとおっしゃったわ」(27「二つの訪問」243〜244ページ)
チルトン先生は両手をパレアナにさしのべました。「パレアナちゃん、きみがいままでやった仕事の中で、一番うれしい仕事の一つがきょう、できあがったのですよ」(中略)夕暮れに、驚くほどおどおどした、驚くほど変わってしまったパレー叔母さんがパレアナのベッドのかたわらへ忍ぶようにやって来ました。(中略)「パレアナや、おまえにお話があるのだよ——だれよりも先におまえに言おうと思ってね。(中略)チルトン先生は——おまえの叔父さんにおなりになるのだよ。これもみんな、おまえのおかげです。(中略)パレアナ、来週、おまえは旅行するのですよ。すてきに気持ちのよい、かわいいベッドに寝たまま、自動車や汽車の中に運ばれて、えらいお医者さまのところへいくのだよ。(中略)その方はチルトン先生と仲のいいお友だちなので、その方におまえをお願いしようと思うのだよ!」(31「新しい叔父」277〜278ページ)
愛する叔父さまと叔母さま——あたし歩けるようになりました。今日は寝台から窓まですっかり歩きました。6歩です。(中略)あたし歩けますの——歩けますの——歩けますのよ! もう十月(とつき)もここにいるんですが、いまとなっては、そんなことちっともかまいませんわ。それに、叔母さまの結婚式も見られたんですもの。(中略)もう一生涯、乗り物なんかほしいと思いません。そのくらい歩けるのがうれしいのです。ああうれしい、なにもかもうれしくてたまりません。ちょっとあのあいだ、足をなくしたこともうれしいのです。足がなくなってみなければ——歩ける足がですよ——足がどんなにありがたいかということはわかりませんもの。明日は8歩歩きますの。(32「パレアナからの手紙」279〜280ページ)
※ 本稿は、エレナ・ポーター著、村岡花子訳『少女パレアナ』(KADOKAWA / 角川文庫、1962年)を基に執筆しています。
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栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。80〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、82〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、90年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)刊行。また、猫のファンタジーを書き始め、2012年『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞を受賞。15年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝のWeb連載を始める。20年『ジーザス ラブズ ミー 日本を愛したJ・ヘボンの生涯』(一粒社)刊行。現在もキリスト教書、伝記、ファンタジーの分野で執筆を続けている。