スウェーデンでは、一人の失業者が仕事を探して就労するまで、職業安定所はつきっきりでサポートするといいます。手厚い失業保険と職業訓練が提供され、失業が長期にわたる人たちには、カウンセリングなどの精神的なサポートも行う。目指すのは、失業者ゼロ。「失業は人間の尊厳を損なうから」という考え方に基づいての政策だそうです。何より驚かされるのは、この制度を維持するために、国民のほとんどが、年金の減額と増税を承認したということでした。今、仕事がない人は、明日の「私」であるかもしれないからでしょう。「連帯」する姿がそこにあります。
マタイ福音書20章に「ブドウ園の労働者のたとえ」が出てきます。ぶどう園の主人が、夜明け前に町の広場で労働者を雇い入れるが、その後も広場で誰も雇ってくれないで立っている労働者を見かけるたびに、その主人は彼らを雇い入れます。そして、賃金を支払う時に、その主人は、労働時間が違う労働者それぞれに同じ賃金を支払う、というお話です。
このたとえ話を読んで、それは不公平だという感想をよく耳にします。ただ、このたとえ話に登場する労働者は、誰も怠けていて、仕事にあぶれたわけではないのです。雇ってもらおうと広場まで出かけていって、待っても待っても、それでもやはり、誰にも雇ってもらえなかったのです。
日雇い労働は慢性的な失業状態です。今日は仕事にありつけても、明日はあぶれてしまうかもしれません。日雇い労働者一人一人が競争させられた状態にいるのです。一人の人が仕事にありついたということは、誰かが代わりに仕事に就けないということを意味します。だからこそ、誰も夕方まで雇ってくれなくて、たとえ1時間だけでもようやく働くことができて賃金がもらえたとしたら、それはどんなに有り難く、すばらしいことでしょうか。
仕事時間の多少にかかわらず、同一の賃金が、そして生活が保障されていくことを、不平等と思うか、大切なことと思うかによって、目指される社会のあり方に大きな開きができます。
〜プロフィール〜
秋山仁牧師(日本福音ルーテル教会牧師・釜ヶ崎ディアコニアセンター喜望の家牧師)