クオレとは、イタリア語で「心」「心臓」「愛」を意味する。新しい学校に転校した小学校3年の少年が、教師や級友たちと共に生活する中で、他者への思いやりの大切さや、弱い者を助ける行為の尊さを学んでいく物語。人間として生きるために一番必要なものが、心を打つ美しい文章で語られていることから、この作品は児童文学の枠を超えて、万人のための「心の書」となった。
『クオレ』について
主人公エンリーコ少年が学校生活の中で、感動したことや心に留めたこと、学んだことを自分の小さなノートにつづった日記形式になっている。とりわけ月1回ベルボーニ先生が読み聞かせる『まい月のお話』は、それ自体が独立した物語となっており、その一つは、アニメ「母をたずねて三千里」の原作として用いられている。
こうした高い芸術性は『クオレ』を子どもと大人の垣根を越えて世界屈指の文学作品にしている。スイスの思想家カール・ヒルティは、「あなたの隣人を愛しなさいという聖書の言葉をこれほど簡潔に感動的に表現した文学作品は他に例がない」と激賞している。
エドモンド・デ・アミーチスの生涯
エドモンド・デ・アミーチスは1846年10月31日、イタリアのインペリア(オネリア)に生まれた。初めは軍人になり、イタリアの独立戦争に参加したが、後に軍人をやめて作家となった。初期の頃は、『軍隊生活』に見られるような軍人としての体験を基にした作品を書いていたが、やがて『ロンドンの思い出』『モロッコ』のような旅行記を手がけ、諸国の風景や住民の生活を浮き彫りにして評判になった。
一方、『学校と家のあいだで』『思い出』『少年時代および学校の思い出』のような教育を目的としたものも書き、称賛された。1886年に『クオレ』を書いて以来、社会問題に取り組むようになり、米国に行くイタリア人移民を取り上げた『浮上』や、社会主義的傾向の強い『みんなの電車』を書いた。
デ・アミーチスは、独立したイタリアに社会悪が横行し、国民の心がすさんで無気力になっているのを見て、この国に最も必要なものは「立派な心を持った人間」であると考えた。そしてイタリアに「真の心」を取り戻させようとして書いたのが『クオレ』だったのである。
彼はこの作品で、どこまでも道徳的なものを追求していくために、人間の心を掘り下げ、悲しい感動にほどよいユーモアを混ぜて読者の心を揺さぶるという独自の文学を実現させた。本書が出版されるや、すさまじい反響が湧き起こり、世界中の国々の言葉に翻訳され、イタリアだけでも出版部数が100万部を超えたといわれている。デ・アミーチスはその後も作家活動を続け、社会問題、教育問題にも取り組んだが、1908年3月11日にボルディゲーラで死去した。
あらすじ
北イタリアのトリノに小学校3年のエンリーコ少年が転校してくる。最初の日、彼はある事件に出くわした。それは、ロベッティという砲兵大尉の息子が、通りに走り出た小さな子どもを助けようとして、乗合馬車の車輪に片足をひかれてしまったのだ。その勇敢な行為はエンリーコの心に強い印象となって焼き付いた。
同じ日、カラブリアから新入生が入ってきたが、クラスの代表としてデロッシという少年が心からの歓迎の言葉をもって出迎えた。このデロッシは成績優秀で家も裕福、幸せいっぱいの少年だったが、彼は少しもそれを誇らず、貧しい家の子や体の弱い子を気遣い、親切に面倒を見てやるのだった。
エンリーコは鉄道員の子ガルローネと仲良くなる。この少年は誰にも優しく親切で、とりわけ「いじめ」の対象となっている貧しい家庭の子や体に障がいのある子を、身をもってかばい、いたわるのだった。小さな生徒たちは彼の姿を見ると、抱きついたり、腕にぶら下がったりして兄のように慕っていた。
カルロ・ノビスは金持ちの子で、ベッティという炭屋の子に「おまえのおやじは汚い」と言っていじめる。しかし、父親から「あやまりなさい」と叱られ、炭屋の前に頭を下げ「ごめんなさい」と謝った。このことを通してエンリーコは、高慢ということはいけないことなのだと心に刻みつけたのだった。
彼はその後、いろいろな級友と仲良くなり、多くのことを学んでいく。コレッティは薪屋の子だが努力家でよく勉強をし、家では病気の母親の世話をしている。いつも元気で幸せそうにしているので誰にも好かれていた。彼は人を愉快にさせるという賜物を持っており、エンリーコは心引かれる。
スタルディは貧しいがたくさんの本を持っていた。両親からもらう小遣いを全部本につぎ込んでいるのである。そして自分で作った図書目録を見せてくれた。彼の書庫は色とりどりの紙で装丁された本が並ぶまるで魔法の世界で、エンリーコの心を魅了するのだった。
クラスにはフランティという困った生徒もいた。彼は自分よりも弱い者を見ると、いじめたり、嫌がらせをしたりする。始終誰かとけんかしていて、大きなピンを学校に持ってきて誰かをつついたり、服のボタンをむしり取ってそれで賭け事をしたりした。そんなある日、彼は教室で「かんしゃく玉」を爆発させ、授業の妨害をしたことから退学処分になった。しかし、彼の母親は、重い病気を押して息子と共に学校に現れ、もう一度息子を学校に来させてくださいと土下座して頼むのだった。その姿があまりにも悲惨なものだったので、教室は静まり返る。そして、フランティは学校に復帰を許されたのだった。
デロッシは、視学官から一等メダルをもらったが、二等メダルは鍛冶屋の息子プレコッシに与えられた。その日、教室の外に、保護者に混じって飲んだくれの鍛冶屋の姿があった。視学官はその前に息子を連れていくと、彼は54人の生徒の中で二等メダルがもらえたから、この子を自慢していいですよと言う。その時、鍛冶屋は初めて自分がどんなに長い間、息子を苦しめてきたかを思い、両手を広げて息子を抱きしめるのだった。
ネッリは身体障がい者なので体操をしないように言われている。しかし、彼はガルローネが見ていてくれるからどうしても出ると言って聞かない。そしてその日、彼は細い手で棒にしがみつき、ひやかされても、笑われても必死で登り始めた。すると、ガルローネ、デロッシ、コレッティが大声で励ました。それに勇気づけられ、ネッリはとうとう頑張って登り切ったのだった。クラス全員が彼を祝福し、彼の勇気をたたえた。
ある日、消防夫が2人、エンリーコの家にやって来て、家の中のストーブと暖炉の点検を始める。その間に父親は、逃げ遅れた女性を命懸けで救出したロッビーノという伍長の話をし、2人の消防夫のうちの1人がその人であることを告げた。そしてその後で言うのだった。「おまえは一生の間に何千という手を握るだろうが、伍長の手のような値打ちのある手はないのだ」と。
それは7月のある日のことだった。エンリーコは突然母から、父が仕事の都合でトリノを離れなくてはならないので、先生や友達にお別れをしなさいと告げられる。彼は最後の試験を受け、合格との通知表をもらう。この時、ベルボーニ先生は、これが最後の授業で自分はこのクラスを去るが、時として厳しい言葉や態度を取ったことを赦(ゆる)してほしいと言う。すると、生徒たちも保護者も「そんなことはありません」と叫び、先生に心からの感謝の言葉を述べるのだった。
エンリーコは全ての級友に別れを告げた後、最後にガルローネの胸に顔をうずめてすすり泣く。すると、ガルローネは優しくせっぷんしてくれたのだった。こうして、エンリーコは父と母と共に、この思い出多い学校に別れを告げたのだった。
『まい月のお話』一覧
- 「パドヴァの少年愛国者」(10月)
- 「ロンバルディアの少年かんし兵」(11月)
- 「フィレンチェの少年筆耕」(12月)
- 「サルディーニャの少年鼓手」(1月)
- 「ちゃんの看護人」(2月)
- 「ロマーニャの血」(3月)
- 「市民勲章」(4月)
- 「アペニン山脈からアンデス山脈まで」(5月)・・・「母をたずねて三千里」の原作
- 「難破船」(6月)
見どころ
ぼくは、ガルローネに、もうずいぶんあわないでいるような気がした。ぼくは、かれを知れば知るほど、かれがすきになる。(中略)大きな生徒が、小さな生徒に手をあげると、そのたびに、小さいほうが「ガルローネ!」と、大声で叫ぶ。すると、大きなほうの子は、もうぶたない。(中略)いちばんちっちゃい子どもたちは、みんなガルローネのとなりにすわりたがっている。(中略)ガルローネは、土曜の朝、一年上級の生徒が、持っていたお金を取られてしまって、もう帳面が買えないと言って、道のまんなかで泣いていたので、その子に、1ソルドやった。(中略)ガルローネなら、友だちを助けるためには、いのちをまとにするにちがいない。(11月4日、208~209ページ)
きみはしあわせだね!と、コレッティはぼくに言った。ああ、ちがう、コレッティ、ちがうよ。きみこそいちばんしあわせなんだ。きみこそ。だって、きみは、人よりも勉強するし、しごともするんだもの。だって、きみは、おとうさんやおかあさんに、人一倍役にたつんだもの。だって、なかよしの友だちよ、きみは、ぼくよりずっと人間がよく、百倍も人間がよく、えらいんだもの。(11月13日、217ページ)
先生は、きのう、デロッシにおっしゃった。「きみは神さまから、りっぱなものをさずかっています。それを、ただむだに、使わないようにするんですね。」 そのうえ、デロッシは、からだが大きくて、きれいだ。金いろの巻き毛が頭いっぱいにかぶさっている。片手をついて、机をとびこえるといった身がるさだ。(中略)いつもぴちぴちとして、ほがらかで、だれにでも親切で、試験のときには、できるだけ教える。いままでだれも、デロッシに失礼なことをしかけたり、ひどいことばを言ったりするような者はなかった。(11月25日、220ページ)
ジュリオは、書きに書きました。ところが、そのあいだ、おとうさんは、ジュリオのうしろにいたのです。(中略)――自分の白い頭を、ジュリオの黒い小さな頭の上にかさねて――そして帯ふうの上を、ペンが走るのを見ていました――はっと、おとうさんは、なにもかも気づき、なにもかも思いだして、なにもかも、はっきりわかりました。やるせない後悔の気持ちと、たまらないようなかわいい気持ちで、胸をいっぱいにして、おとうさんは、そこに、むす子のうしろに、息をのんだまま、じっと立っていました。(「フィレンチェの少年筆耕」244~245ページ)
少年は、その日一日じゅう、つきそっていました。その夜もずっと、つきそっていました。(中略)病人は、少年を見つめていました。じっと、見つめていました。まだときどき何か言いたそうにして、一生けんめいになって、くちびるを動かしていました。(中略)「臨終だ。」と、お医者が言いました。少年は、病人の片手をつかみました。病人は、目をあけて、少年をじっと見てから、また目をつぶりました。そのとき、少年は片手をにぎられたような気がしました。「おれの手をにぎったよ!」と、さけびました。(中略)少年は死んだ人に呼びかける名まえをさがしているうちに、自分が五日のあいだ呼んでいた、あのやさしい名前が、胸の底から、くちびるをついて出てきました。「さよなら、かわいそうな、ちゃん!」(「ちゃんの看護人」276~278)
「ぼくのことをおぼえていてね」と、もう一度少年は、息のようにかぼそい声で、つぶやきました。「ぼくのおっかさんや・・・ぼくのおっとつぁんや・・・ルイジーナにせっぷんしてあげてね・・・さようなら、おばあちゃん・・・」「まあ、いったいぜんたい、どうしたんだい!」 おばあさんは、自分のひざの上にもたれていた少年の頭を、心配そうにさわりながら、どなりました。それから、ありったけの声をふりしぼって、ひっしになってさけびました。「フェルルッチョ! フェルルッチョ! 孫よ! かわいい孫よ! 天使さま、お助けください!」でもフェルルッチョは、もう、返事をしませんでした。背中を短刀で、つきさされた小さな英雄は、自分のおっかさんのまたおっかさんのいのちを助けた少年は、神さまにその美しい勇敢なたましいを、おかえししたのであります。(「ロマーニャの血」300ページ)
おとうさんはおききになった。「おまえの同級生のぜんぶに、あいさつをしましたか。」 ぼくは、はい、と言った。(中略)「では、さようなら!」と、ぼくのおとうさんは、さいごに、学校のほうをちらと見ながら、感激した声で、おっしゃった。すると、ぼくのおかあさんが、くりかえされた。「さようなら!」 で、ぼくは、何も言うことができなかった。(7月10日、402ページ)
※ 本稿は、『世界少年少女文学全集24巻・南欧編2』(創元社、1953年)収録の柏熊達生訳「クオレ」を基に執筆しています。
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栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。80〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、82〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、90年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)刊行。また、猫のファンタジーを書き始め、2012年『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞を受賞。15年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝のWeb連載を始める。20年『ジーザス ラブズ ミー 日本を愛したJ・ヘボンの生涯』(一粒社)刊行。現在もキリスト教書、伝記、ファンタジーの分野で執筆を続けている。