スーパーヒーロー映画が世界を席巻している。世界興行収入トップ10に常にランクインしているのは、マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)作品群とDCコミック作品群である。しかし、2010年代から20年代にかけては、MCUが一人勝ち状態であったが、2019年の「アベンジャーズ/エンドゲーム」以降の作品が複雑化し過ぎたせいか、少しずつ下降気味である。一方、DCもバットマンやスーパーマンというメジャー級のキャラクターを擁しつつも、なかなか突き抜けたシリーズを生み出すことができていない。
そんな中、MCU系列ではあるものの、純粋なマーベル作品からは一線を画すソニー・ピクチャーズ製作(マーベルは協力として名を連ねている)のスパイダーマン作品がある。それが、18年(日本では19年)公開の「スパイダーマン:スパイダーバース」である。
この作品は、アニメ映画の歴史を塗り替えただけでなく、スーパーヒーロー物に「マルチバース(多元宇宙)」という概念をいち早く取り入れた作品としても多方面からかなりの好評価を得た。私も鑑賞したが、斬新な画像と音楽のミックス度に加え、物語展開の奥深さに感嘆したことを覚えている。
そして今年6月、このシリーズ最新作となる「スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース」が公開された。アニメ表現がさらに進化しているのはいうまでもないことだが、今回はそのストーリーテリングの見事さに舌を巻いた。同時に、「スーパーヒーローとはどんな存在なのか」という長年の問いに、これ以上ないほどのファイナルアンサーを提示してくれている。
本作は、今までのスパイダーマンのコンテンツ(アニメ、映画、そしてMCU以降の実写作品群の全て)に対する次世代クリエイターからの挑戦状である。そしてその挑戦は、単なる荒唐無稽な創作キャラの域を超えて、キリスト教界の屋台骨を支えている牧師、伝道師、神学生および教会のリーダーたち、いわゆる「献身者」に向けられたチャレンジとも受け止めることができる。一体どういうことか。今から詳述していこう。
ご存じの通り、スーパーヒーローとは特殊能力を身に着けた(もしくは「背負わされた」)超人たちである。彼らは、世界にはびこる悪者たちと対峙し、滅ぼしたり取り締まったりする。しかも彼らは、それを単なる「職業」でなく、自分の「使命」と受け止めて生きているのである。つまり「生き方」がスーパーヒーローなのである。
特にスパイダーマンというスーパーヒーローには、物語の構成上、一つの「お約束」が存在する。それは、主人公ピーター・パーカーが、自らの使命に気付いてスパイダーマンとなる過程において、最も愛する人の死がそのきっかけとなるという展開である。
トビー・マグワイア版のスパイダーマンでは、ベンおじさんが強盗に撃たれて亡くなってしまう。この時、あの有名な「大いなる力には、大いなる責任が伴う」というセリフが語られている。また、アンドリュー・ガーフィールド版では、戦いの最中にピーターの恋人グウェンが命を落としてしまう。ここでピーターは、スパイダーマンとして生きていく決意を固める。MCU版では、友人や恋人たちの記憶から自らの存在を消して世界を救うことを心に誓う。つまり、スパイダーマン(ひいてはスーパーヒーロー)とは、主人公が自らの使命を見いだすために、最も愛する人の死を引き換えにしなければならない「悲しき宿命」を背負った存在として描かれているのである。
しかし本作は、この宿命に抗う少年スパイダーマン(マイルス・モラレス)の物語である。彼はマルチバースに存在する全てのスパイダーマンたちがこの宿命を背負っていることを知る。さらに、彼らスパイダーマンたちのリーダーに至っては、大切なものと引き換えにしなければスパイダーマンにはなれない、とまで言うのである。マイルスはこの考え方に違和感を抱く。
私はこのシーンを観ていて、「私もどこかでこんな違和感を抱いたことがある」と思った。それは子どものころ、教会の中で抱いた違和感である。「献身者」と呼ばれる人たちの中に共通して見いだされた「物語」である。例えばこんな感じだ。
「私は福音のために全てを投げ出します。このまま仕事をしていけば、平和に暮らせるでしょう。でも、それではクリスチャンとして神様に申し訳ないのです。イエス様のあの十字架の犠牲を思うなら、私もまた福音のために何かをしなければと思います。結婚、収入、全てを神様に委ねます。そして主をまだご存じでない人たちのために、私はこの身をささげて献身します」(ここで本人は涙!会衆は拍手!)
かくいう私も同じような心情で献身の道を歩み出した(当時は既に結婚はしていた)。しかし今振り返ると、牧師として生きてきた今までの人生は、「大切なもの(人)と引き換え」にすることではなかったと思う。聖歌の中に「すべてを捨てて従いまつらん」という歌詞があるが、私に限っていうなら、牧師として生きるために「大切なものを捨てる」ことを神は願われなかった。むしろ、放蕩息子が歓迎されていることに腹を立てる兄に対して父が「わたしのものは全部お前のものだ」と語ったように、神は献身者となった私に多くのもの(出会い、家族、知識など)を与えてくださったと今では感じている。
本作の主人公マイルスが、他のスパイダーマンたちが唯々諾々と受け入れた「悲しき宿命」に違和感を抱き、「僕は嫌だ!」と抗ったとき、私の中で彼と同じ思いがシンクロしていた。だからそのシーンで涙があふれたのだろう。また、多くのスパイダーマンたちがマイルスを止めようと襲いかかってくる中、彼は自分の世界へ必死になって戻ろうとするシーンがある。その時私は、握りこぶしをしながら心の中で「頑張れ!頑張れ!」と叫んでいたように思う。その声がいつしか「主よ、助けてください!神様、助けてください!」に変わっていたことに気が付いたのは、鑑賞後のことであった(笑)。
あなたはいかがであろうか。クリスチャンになったとき、また、牧師や伝道師として献身したとき、スパイダーマンが「悲しき宿命」を背負うように、自分の支払った犠牲がキリストの十字架に見合うものとなることを密かに願っていなかっただろうか。もしそのままであるなら、その「福音」をもう一度点検した方がいい。どこか歪んでいないか、どこかねじれていないか、と。
本作は、いろいろな見方ができる作品である。私が紹介したのは、あくまでも私個人の意見であり、これが「正しい鑑賞法」だとはとてもいえない。しかし、せっかくマルチバースを扱った作品なのだから、いろんなバース(世界)があってもいいではないか。私にとって本作は、鑑賞後に牧師や伝道師と語り合いたくなった一作である。
■ 映画「スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース」予告編
■ 映画「スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース」公式サイト
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