「怪物だーれだ? 怪物だーれだ?」と子どもが楽しそうに叫ぶ特報映像が印象的な映画「怪物」。文字通りモンスター級の傑作だ。
監督は是枝裕和。もはや何の枕詞も必要ないだろう。現在、日本のトップ映画監督に君臨する「世界の是枝」である。2019年の「真実」では、フランスを代表する女優カトリーヌ・ドヌーブと、そして昨年発表した前作「ベイビー・ブローカー」では、韓国映画の至宝ソン・ガンホと組んでいる。そんな是枝監督が日本映画に凱旋(がいせん)し、「花束みたいな恋をした」で鮮烈な恋愛模様を活写した脚本家の坂元裕二と組んで生み出したのが本作である。先日開かれた第76回カンヌ国際映画祭では見事、脚本賞を受賞した。
とある町の中心にあるビルから火災が発生し、その様子を人々が眺めている。どうして火災は発生したのか。事故か。それとも放火か。そんなことを観る側が思い巡らせているうちに物語は進む。
この火事の様子をマンションのベランダから見ていたシングルマザーの麦野早織(安藤サクラ)は、11歳になる息子・湊(みなと、黒川想矢)からこんな質問を受ける。
「豚の脳を移植した人間は、人間? 豚?」
びっくりした早織は、誰がそんなことを言っていたのかと聞き返す。すると湊は、担任の保利先生(永山瑛太)だと答えた。ここから物語は急転する。
湊のスニーカーが片方なくなってしまったり、持たせた水筒の中から砂利が出てきたりしたことから、早織は息子が学校でいじめに遭っているのではないかという疑念を抱くようになる。そして湊が奇怪な言動を繰り返すようになったことから、早織はついに学校へ相談に向かうのだが、彼女はそこで想像を絶する「怪物」たちと遭遇することになる――。
本作は、黒澤明監督の「羅生門」やマーティン・マクドナー監督の「スリー・ビルボード」を彷彿(ほうふつ)とさせる。つまり、各々の立場から描かれる「世界観」があり、主役になる人物によって全く異なった物語が生み出される構成になっている。そして観客である私たちは、それらを全て見せつけられることになる。言い換えるなら、私たちは「神の視点」で物語の進行を見守ることになるのである。
第一幕は、シングルマザーである早織の立場から「事件」を体感することになる。そこで彼女が遭遇する「怪物」たちは、同調圧力によって生み出された「無気力・無関心・事なかれ主義」の教師たちである。観ている側も腹立たしくなり、滑稽に思えるほど、役者たちの演技がうまい。特に校長先生を演じた田中裕子の快演には、背筋が凍る思いがした。
「これは学校に代表される日本の集団主義を批判した映画なのか」と思って観ていると、いきなり時間が最初に戻され、今度は湊の担任の保利先生を主役として、第二幕が展開する。そこでの展開は、今まで早織目線で見せられたドラマとは全く色合いの異なる物語となる。新任教師の保利がどのような葛藤を抱え、どんな問題にぶち当たっていたかが描かれていく。すると、どす黒くて邪悪だと思っていた保利という男が、次第に灰色になり、やがて白くなっていくのを観客は感じ始めるのである。ネガがポジとなっていくこの展開は、さすが是枝監督であろう。保利が遭遇した「怪物」とは誰であったのか。ここにも興味が尽きない。
しかし、物語はもう一幕ある。今度は早織の息子・湊の視点から描かれる物語である。ここで事態は急転する。しかもあり得ないほどの飛躍を遂げるのである(ここから先は、作品を観て直接確かめていただきたい)。そしてラストに子どもたちが出会った「怪物」の正体が分かるとき、観客はその状況、実態に涙することになるだろう。
本作は、まるで三重の箱に入れられたプレゼントを開けるような作品である。箱の色合いが各々異なっており、それを開けるたびに新しい発見や驚きがある。そして箱の中に入っていたプレゼントそのものが姿を現すとき、私たちは物語の軌跡を追ってきた自分自身の姿に出会うことになる。それは果たして「怪物」か、それとも「天使」か――。
観終わって痛切に私の中によみがえってきた聖書の言葉がある。
人には自分の歩みがみなまっすぐに見える。しかし、主は人の心を評価される。(箴言21:2、新改訳2017)
本作は、3幕それぞれの主人公が互いに分かり合うことはない。各々の視点で相手を判断し、評価し、とある結末に至る。しかし、観客である私たちはその全てを知ることができる立場に置かれている。つまり、「神の視点」で全てを把握することができるのである。実際に何があって、人々がどんな気持ちでその問題に取り組み、そして結果どうなったか・・・。
それを2時間かけて見せつけられるのである。この「すれちがい」を全て理解できる立場からすると、彼ら(早織・保利・湊)に対して一種のもどかしさを感じてしまう。だが、これが私たちの「現実」なのだろう。聖書が語るように、「人には自分の歩みがみなまっすぐに見える」のだから。彼らはだから分かり合うことはないし、一瞬自分の歩みが歪んでいると思えたとしても、それを正すことなどできないのだろう。ここに人の業(キリスト教業界用語では「罪」と言ってもいいかもしれない)がある。
映画だから私たちは「人の心を評価」する立場に立てる。しかし、現実はそうならない。だからこそ、私たちは神を見上げることが必要なのではないだろうか。自分の道「だけ」が正しいと思い込んでしまう前に、その道が実際に描き出す歪みや戸惑いに自ら気が付くためには、この聖書の言葉のように「主(神の視点)」が私たちには必要なのではないかと思わされた。
本作は、観終わった後に必ず語りたくなる一作であることは間違いない。
映画「怪物」は、6月2日(金)から全国ロードショーされる。
■ 映画「怪物」予告編
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