聖霊のバプテスマの出来事、すなわちペンテコステは、使徒行伝2章に記され、その意義はヨハネによる福音書16、17章に記されている。
最後の晩餐の席上、イエスは決別説教で、「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします」(ヨハネ16:7、新改訳)と語られた。
そしてその後、目を天に向けて、「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、(中略)その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです」(同17:1~3、同)と祈られた。
聖霊のバプテスマとは、イエスの十字架を信じる全ての者に天より遣わされる聖霊様(もう一人の助け主)を迎えることであり、それは永遠のいのちを与えられることなのだ。
1984年8月28日、神奈川県湯河原の厚生年金会館で行われたある聖会でのこと。既に夜の9時を回っていたが、講師が「韓国に対する日本の罪!」と叫んだ。そして、数日続いたその聖会の最後の招きの時、私は神を捨てるために前に出た。しかし、講師の手に罪の告白を記した紙をたたきつけるように渡した瞬間、突然頭上の天井が割れ、轟音(ごうおん)とともに光の束が落ちてきた。その中で私は、ただ全てを忘れて「ハレルヤ!ハレルヤ!」と叫んでいた。
前年、兄と共に経営していた会社が30億円の負債を抱えて倒産し、無一文になったのは38歳の時だった。不思議なことに、中学生の長男をはじめとする3人の子どもたちは、私が倒産したことが分からなかったという。恐らくそれは、私の礼拝中心の生活が変わらなかったからだろう。そんな時、「日本伝道の幻を語る会」が湯河原の厚生年金会館で行われたのだった。主講師は、広島キリスト教会の植竹利侑牧師。千人教会を達成されると話されており、非凡な説教者として聞こえた。
その植竹牧師が、説教の半ばで「韓国に対する日本の罪!」と叫んだのだった。「確かに、私の祖父の時代は韓国・朝鮮に対して罪を犯した」と内心で思っていると、突然「それはお前の罪だ」という声が聞こえた。私は首を振ってその思いをふるい落としながら、「私はあまり熱心過ぎた。だからこんな幻聴が聞こえるんだ」と考えた。
部屋に戻り、寝ようとすると、また「それはお前の罪だ」と聞こえる。とうとう、一昼夜この声に責められ続けた。3日目の夜になるころにはさすがに、「これは神の声なのだろうか」と思い始めた。他のプログラムは上の空で、私は聞こえ続ける声に抗(あらが)っていた。「主よ、あなたなのですか!」 すると、私の心の中に8年ほど前の韓国の情景が浮かんできた。
当時、木材販売担当だった私は、数十人の建設業者を連れて韓国旅行を企画した。神武景気といわれた好景気の中で、韓国や東南アジアへの業者接待旅行が最盛期だった。私は首を振って抵抗した。「主よ、あれは8年前のことです。日本では窃盗でも時効となる昔のことです」。しかし、どんなにしても声は消えなかった。私はあえぎながらつぶやいた。
「私は死に物狂いで主に従ってきた。財産の全てを失っても、神を信じることを第一として歩み、教会を大切にし、妻も子どもも信仰者として歩んできた。それなのに結局、私は罪を犯したとして、間違いを神に責められるのか。幾度、悔い改めすれば、私は清められるのか・・・」
数えきれぬ悔い改めの日々。疲れ果て、頭(こうべ)を上げることができなかった。声に追い詰められ、私の中の何かが壊れた。「もうやめよう」。この世でも生きられず、神の側でも生きることができない。私は信仰を捨てて山を降り、人間をやめようと思った。そしてふと、「せめて自分の罪を告白して去ろう」という思いが湧いた。
罪を紙に書いて、植竹牧師に渡そうと探したが、どこにもいない。とうとう最後の聖会の時が来てしまい、植竹牧師は講壇の上にいた。説教の内容は耳に入らなかった。ただ早く紙を渡して、山を降りたかった。最後の招きの時、私は飛び上がるような勢いで前に出た。神を捨てるためだった。献身者たちの祈りの中で、講壇から降りていた植竹牧師の手にたたきつけるように紙を渡し、一時も早く踵(きびす)を返そうとする私に、植竹牧師が渡した紙をちらりと見て天を仰ぎ、「ハレルヤ」とつぶやくのが聞こえた。
その瞬間、天井がバンと割れて、上から光がドーンと降り注いできた。その時まで、神を捨てようとしていたのに、私は光の渦の中で「ハレルヤ!ハレルヤ!」と叫んでいた。周囲は全く見えなかった。ただ狂喜だけがあった。
どのようにして部屋に戻ったかも覚えていない。寝たか起きていたかも分からない。襲いくる歓喜の中で、私は寝床にうずくまっていた。その夜の2時ごろ、私は何が起こったのか知ろうと思った。起き出して、誰もいない大会議室の戸を開け、恐る恐る天井を見上げた。天井は壊れていなかった。しかし、確かに天井が割れるのを見た。恐ろしい音と光の激流が私に落ちてくるのが見えた。
しかし、ふと気付いた。あの時、100人ほどの牧師や信徒がいたではないか。彼らは、あれを見、聞いたのだろうか? それなのになぜ驚かなかったのだろう? 私だけが見たのだろうか? 聞いたのだろうか? 全く何も分からなかった。聖霊のバプテスマなどという信仰を、それまで誰も教えてくれる人がいなかったのだから。
ともかく、私は全く変わってしまった。罪の重荷はどこかに行ってしまい、喜び、いや、狂喜だけが私を包んでいた。それから1カ月、訳の分からない狂喜の中で過ごした。いつ寝たのか、いつ起きたのかも分からなかった。狂気かとも思ったが、全てが輝いて見えた。
聖書を読まねばならない。これが何か、知らねばならない。創世記から座り直して読み始めた。読み疲れて眠り、夜中にふと目覚めて、暗闇に起き直ると、「主よ、そこにおられたのですか!」と叫んだ。暗闇の中にイエスがおられるのが見えた。姿形が見えたのではない。しかし、確かに暗闇の中に主がおられ、思わず伸ばす手に衣が触れるようだった。
貪(むさぼ)るようにして読んでいた聖書が、ヨハネによる福音書16章7節に来た。「わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが」(口語訳)という一節を見たとき、「そうだったのか!」「本当のことだったのだ!」という思いが私を貫いた。その瞬間、聖書の全巻がスーッと私の中を通っていった。「分かった」。そう思った。何がというのではなかったが、聖書の全てが分かったと思った。
そして40歳の時、趙鏞基(チョー・ヨンギ)牧師に出会い、私は、この生ける神、聖霊様の実在を伝えるために伝道者となった。
聖霊のバプテスマから20年ほどたった60歳に近いころ、ある事件のストレスから重度の耳鳴りを患った。考えることも、本を読むこともできず、悶々(もんもん)としていたとき、「十字架を信ぜよ」という神の声を聞いた。
耳鳴りは神の恵みだった。ひたすら「十字架を信じます」と言い続けるうちに、不思議なことを経験した。十字架への信仰が深まる度に、あの瞬間の主の実存に帰ってゆくのだ。十字架を信じ、主の約束の聖霊様をお迎えするという単純な信仰を繰り返すうちに、40年前の湯河原での経験が、全く劣ることなく、今日の経験となることに気付かされた。
主は、あの時にだけおられたのではなく、何時も変わることなく、私と共におられたのだ。十字架こそペンテコステへの道、十字架こそ聖霊様の内住による永遠のいのちの門だったのだ。今朝も私は、十字架を信じ、ペンテコステのいのちに生きている。
「天のお父様、十字架を信じます。聖霊様、お入りください。永遠のいのち、永遠の愛となってください。イエス様によってお祈りいたします。アーメン」
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