著者の橋爪大三郎氏は、日本福音ルーテル教会の信徒である社会学者です。本書『権力』は、今年4月の刊行で、近著のため広告が出されていました。私は、主日礼拝でマルコによる福音書1章21~28節の説教をするに当たり、「イエスの権威」ということについて考えてみたかったため、何かヒントになるのではないかと思い、本書を購入しました。
本書は6章で構成されていますが、序章に続く、第1章の冒頭から、トマス・ホッブズの『リヴァイアサン』(1651年)を取り上げています。リヴァイアサンとは、旧約聖書のヨブ記に登場する怪獣の名前であり(23ページ参照)、本書はキリスト教を踏まえて書かれたものです。
『権力』において著者は、『リヴァイアサン』の構成を範としているように感じられます。第2章「旧約聖書と権力」では、アダムとエバに始まり、ノア、アブラハム、ヤコブ、モーセが紹介されます。
そこから、12部族定住、士師時代へとつながり、王のいないイスラエルの民が王を求めるようになったことが述べられています。こういった構成は、『リヴァイアサン』が、特にその40章で、旧約聖書のこれらの人物などから論を進めていることと共通しているように思えます。
第3章「権力の諸理論」では、税や裁判のことが取り上げられています。著者はここでも旧約聖書を引き合いに出します。民がサムエルに王を要求したときに、サムエルは、王ができれば、子どもたちを徴用して働かせたり、農地を没収したり、収穫を税として徴収するだろう、と民に警告します。それでも民は王を願います(122ページ参照)。こうしてイスラエルに王制が誕生します。
また、ソロモン王が裁判を行ったことも紹介されており、ここまでで、モーセやサウル、そしてダビデやソロモンといった「権力者」が旧約聖書の中に存在したことが伝えられています。つまり、「人が人に従う(人が人を支配する)」社会構造が明らかにされています。
4章「権力とルール」では、上記のような「人が人に従う」ことが正当化されるのは、聖書においては、神が命じた場合のみであるとされます。一神教では、人は神に従うことだけが正しいからです(195~196ページ参照)。
しかし、儒教では「人が人を支配するのは正しい」とされています。著者によれば、中国共産党には儒教のこの教えの影響があるようです(197~199ページ参照)。
著者は本書の最後部で、権力には「黒い権力」と「白い権力」があると述べています(264ページ以下参照)。黒い権力は人々から自由を奪い、白い権力は自由を与えるといいます。モーセは、神から権力をあずかることによって、エジプトで奴隷となっていたイスラエルの民を解放する指導者となりました。そういったことを、白い権力としているのでしょう。
さて、冒頭で述べた、本書を読む私の目的であった、マルコ福音書1章22節の「人々はその教えに驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者のようにお教えになったからである」(聖書協会共同訳)は、本書によってどのように再解釈されたでしょうか。
律法学者は、律法の狭義な理解と押し付けにより、人々から自由を奪う、いわば黒い権力者であったといえるかもしれません。一方、イエスは権威ある者のように教えられましたが、その教えは人々に自由を与えるものであり、またイエスは悪霊につかれた人たちを解放し自由にしました。つまりイエスは、著者の言う白い権力者であったのです。
本書は、聖書を「権力」という視点から読むときに有用です。
■ 橋爪大三郎著『権力』(岩波書店、2023年4月)
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