映画「ロストケア」のレビューを書いたが、その後に読んだ原作小説『ロスト・ケア』についてもレビューを書きたい。正直に告白すると、映画がとても「刺さった」ので、鑑賞後に書店で原作を購入し、イッキ読みしてしまったのである。
著者は葉真中顕(はまなか・あき)氏。2013年に第16回日本ミステリー文学大賞新人賞を本作で受賞し、作家デビューされている。代表作に、『絶叫』(第36回吉川英治文学新人賞候補)、『凍てつく太陽』(第21回大藪春彦賞受賞)などがある。
小説版(以下「小説」と記述)と映画版(以下「映画」と記述)の最大の違いは、映画は検事と犯人の対決が前面に押し出されているのに対して、小説は「フーダニット(誰が犯人か)」をめぐる正真正銘のミステリーになっていることである。
小説に時々挿入される<彼>が一体誰なのか。それが映画では、開始15分で何のてらいもなく情報開示される。小説は活字で物語を追うことになるため、どうしても文字を読ませるための牽引力としてフーダニットという要素が必須だったのだろう。また、検事役が小説では中年男性だが、映画ではご存じの通り、女優の長澤まさみが演じている。このあたりは、視覚的効果を狙ったということなのか。
小説が「フーダニット」を中心に描かれているとするなら、映画は「ホワイダニット(なぜ犯行に及んだか)」が中心である。もちろん、小説のクライマックスも「ホワイダニット」なのだが、その一点に集中させる作りになっている映画の方が分かりやすい展開だろう。
実は、映画を鑑賞したとき、犯人がキリスト教的世界観を少し歪めて体得していることを感じた。だが、それは作品の中ではあまり中心的な問題とはなっていなかったため、「もしかして」程度で素通りさせてしまっていた。しかし小説では、このあたりが大きく物語の展開に寄与していた。そのため、犯人がどうしてこんな事件を起こしたのか、またその結果、犯人が何を手にした(手にしようとした)のか、というポイントが、見事に聖書の「現代的解釈」となっていたのである。これには驚かされた。
著者の葉真中氏はクリスチャン(キリスト教徒)なのだろうか。しかし、参考文献を見ると、いろいろ「お勉強」していることが分かる。恐らく、ガチなクリスチャンではなく、学んでキリスト教の知識を得たのだろうと想像した。しかし、彼が小説の中で詳述する検事の独白の中には、「宗教二世」っぽい要素も散見できた。例えば、家族にクリスチャンがいて、小さい頃には教会に通っていたということなら納得がいく。それくらい精緻な「日本のキリスト教会描写」がある。そして神学的な見解が随所に見受けられるのである。
そもそも、小説においては、物語を始める前に聖句が2つ添えられている。
だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。(マタイによる福音書7章12節)
わたしが来たのは、地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。(同10章34~36節)
そして、確かにこの2つの聖句が、小説にも映画にも共通する、ある種の「キリスト教的世界観」の構築に大きく関わっている。
小説でかなり色濃く打ち出されているのが、「犯人=救世主=キリスト」という構図である。物語の後半、犯人が判明して以降は、犯人の描写に加え、何度か聖書の箇所が記載されている。ここにも、イエス・キリストと犯人の相関性が暗に込められているといえよう。
キリスト教においては、人は全て原罪を持つ存在(罪人)である。それは、たとえ司法に携わる人間であったとしても同じであろう。すると、司法は罪人が罪人を裁くという矛盾を露呈することになる。だから、かつて「キリストが罪人である人間によって十字架刑に処せられた」ようなねじれ現象が、現代においても繰り返される、という理屈が成立することになる。「無実の男が罪ある人々によって処刑された=イエス・キリストの物語」という構図である。
うまい! 見事に、ある種の「キリスト教的世界観」を現代の社会問題と絡め、エンタメに昇華させている。
小説は、実際のキリスト教界に対して2つの「挑戦」を投げかけているように思われる。
1つは、聖書、そしてイエス・キリストの物語についてのこのような「解釈」に対し、キリスト教界はどう反論するか。映画も小説も、物語が進んでいくと確実に私たちは犯人に感情移入していくだろう。その「呼び水」となっているのが聖書の言葉である。しかし、クリスチャンからすれば、この犯人がキリストかと言われたら、それはとんでもないことである。では、どこが間違いで、どの時点で「真に聖書が語りたいメッセージ」からずれてしまったか。それをしっかりと説明できるだろうか。これが第一の挑戦である。
第二の挑戦は、この小説(そして映画)のように、聖書の世界観を現代の私たちのリアリティーに適用させる「語り」をキリスト教界は持ち得ているか、である。
小説の中では、日本のキリスト教界の「現実」が描かれている。その筆致は驚くほど正鵠(せいこく)を得ている。「日本社会のマイノリティー」「子どもの頃は教会に通っているが、大人になったら似非クリスチャン(という認識を持つ人が多い)」「聖書は作り話だ(と考えるようになる)」・・・。
もしかしたら、葉真中氏自身がそういう経験をして大人になったのではないか。または、そんな声をリサーチする中で多く得たのではないか。いずれにしても、読者は本作を通して、聖書の言葉やイエス・キリストの十字架に関心を抱くことになるだろう(もちろん全員とはいかないが、少なくとも1パーセント未満ということはないだろう)。
本作は、日本人と聖書が触れ合う「瞬間」を生み出すことに貢献している。では、それを本業とする牧師たちはどうか。また、福音宣教を掲げるキリスト教会はどうか。ここまで「おもしろく」「考えさせる」方法で、人々を聖書に、キリスト教信仰に触れさせようと努力しているだろうか。
本作は、小説、映画ともに社会派サスペンスとして完成された作品である。同時に、キリスト教界に生きている(と自覚している)人間に対して、図らずも大きな「挑戦状」をたたきつけている。これに答えることが、私たちクリスチャンにできるだろうか。そこに知恵を絞っているだろうか。自らを省み、今後の働きの中で答えていきたいものである。
■ 葉真中顕著『ロスト・ケア』(光文社 / 光文社文庫、2015年)
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