私の人生の目的。これは探し出し、つかみ取ったのではなく、与えられたものです。
牧師となって、今のような生き方をしているとは、子どもの頃には想像もつきませんでした。神学校に入学して、将来牧師になるための準備をし、訓練を受けながらも、今のような牧師になるとは想像できていなかったと思います。
しかし、18歳でクリスチャンになったとき、人生の目的が分かりました。神様が目的を持って私を造られ、私のために計画を持っておられる。これからは、自分のために生きるのではなく、キリストのために生きていくんだと。
しかし、一時的に目的を見失うことがありました。とても空しさを感じました。目的を見失なったときには、人と自分を比較して、自分が勝っているということに喜びを感じ、自分が劣っているということにつらさを感じました。
クリスチャンになって、あんなに喜びがあふれていたのに、これは一体なんだろうと感じました。せっかく人生に目的が与えられたのに、いつの間にかそれを忘れてしまったのです。
聖書には「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう」(ルカ16:10、11)と書かれています。
忠実であり続けるためには、目的を知っている必要があります。
昔ロシアの刑罰に、A地点の水を汲んでB地点に流し、B地点の水を汲んで、A地点に流すことを繰り返す。あるいは、A地点からB地点に土を運んで山を作り、作り終わったら、B地点の山を崩してA地点にその土を運んでA地点に山を作るという刑罰があったそうです。
ほとんどの囚人は気が狂って発狂してしまったそうです。やることに意味も目的もないからです。同じような作業でも、水を汲んで花壇に水をまいたり、土を運ぶことに意味や目的があるなら、ほとんどの囚人の目が輝いたはずです。
私の人生は神様のためにある。自分のためではない。自分の栄光を現すためではない、神様の栄光を現すためにある。自分を伝えるためではない、キリストの福音を伝えるためにある。人々に仕えさせるためではない、人々に仕えるためにある。
人生が空しい。生きるのがつらい、などと感じるとしたら、その解決のためにイエス様を心に迎えてください。
イエス様は、ラオデキヤ教会に向けて「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」(ヨハネの黙示録3:20)と語られました。
教会に通っていたとしても、洗礼を受けていたとしても、イエス様を心の外に締め出している人がいることを教えます。
イエス様と出会えば、人生の目的が分かります。その目的を見失わないで生きていくならば、人生は、どんな状態であったとしても充実しているし、幸せを感じられるものです。この幸せを分かち合うために、今日もいのちが与えられているのです。
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