今回は、20章9~26節を読みます。エルサレムに入られたイエス様は、その後(マルコ福音書11章12節によれば翌日)エルサレム神殿に行かれ、そこで商売をしていた人たちを追い出す、いわゆる「宮きよめ」をされた後、境内で教えを説かれました。20~21章は、エルサレム神殿でのことを伝えています。
ぶどう園と農夫の例え
9 イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。10 収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕(しもべ)を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。11 そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。12 更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。13 そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』 14 農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』 15a そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。
これは、「ぶどう園と農夫の例え」といわれているものです。神様を意味しているぶどう園の主人が、そのぶどう園を農夫たちに貸して旅に出ます。収穫の時期になったので3人の僕を農夫たちのところに送るのですが、次々と袋だたきにしたり傷を負わせたりして、何も持たせないで追い返してしまいます。
この場合の僕たちというのは、イエス様が来られたときに至るまでの預言者たちを指しているとされます。彼らは、神様から召命を受け、民の中に使わされますが、為政者たちから侮辱されました。
ぶどう園の主人は、最後に自分の息子を農夫たちのところに送ります。息子は、イエス様を意味しています。しかし農夫たちは、送られてきた主人の息子を見て、「これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる」と言って殺害してしまいます。これは、イエス様が十字架にかけられることを予示しているのでしょう。事実、当時の指導者たちは、イエス様が民衆の心を捉えていたので、自分たちの立場を取り戻すために、イエス様を「殺してしまおう」と思うようになったのです。
ぶどう園が別の人たちに渡される
15b さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。16 戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」 彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。17 イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。』 18 その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。19 そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。
イエス様は、「愛する息子が殺されたとき、主人は殺した農夫たちをどうするだろうか」と人々に問われ、自ら答えを示しておられます。それは、「農夫たちは滅ぼされ、ぶどう園は別の人たちに渡される」というものでした。これは、第31回でお伝えした「大宴会の例え」で、最初に招かれた客に代わって、町の広場や路地にいた「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」や、通りや小道にいた人々が招かれるのと同じようなことでしょう。
さて、では私たちは、最初にぶどう園を渡された農夫たちと、次にぶどう園を渡された別の人たちのどちら側なのでしょうか。これは恐らく両方でしょう。私たちは、自分自身の罪によってイエス様を十字架につけてしまいました。けれども、ぶどう園を渡された別の人たちのように、イエス様に招かれているのです。
イエス様は、「隅の親石」として私たちの中にいてくださいます。教会は、そのイエス様を土台として建てられています。けれども私たちがイエス様を拒否するならば、18節で伝えられているように、打ち砕かれ押しつぶされてしまいます。
皇帝への税金
20 そこで、機会をねらっていた彼らは、正しい人を装う回し者を遣わし、イエスの言葉じりをとらえ、総督の支配と権力にイエスを渡そうとした。21 回し者らはイエスに尋ねた。「先生、わたしたちは、あなたがおっしゃることも、教えてくださることも正しく、また、えこひいきなしに、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。22 ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」 23 イエスは彼らのたくらみを見抜いて言われた。24 「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか。」 彼らが「皇帝のものです」と言うと、25 イエスは言われた。「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」 26 彼らは民衆の前でイエスの言葉じりをとらえることができず、その答えに驚いて黙ってしまった。
この時代、ローマの支配下にあった地域の人々は、ローマ皇帝に税金を納めなければなりませんでした。イエス様をねたんだ指導者たちは、回し者を送ってイエス様に対し、「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか」と問わせました。イエス様が「適っていない」と答えれば、ローマ皇帝に逆らう者として訴えることができます。逆に「適っている」と答えるならば、律法に違反している者とすることができます。
イエス様は、回し者たちのたくらみを見抜いていて、デナリオン銀貨を見せるように求めました。デナリオン銀貨には、ローマ皇帝ティベリウスの肖像と銘が刻まれていました。そして、「皇帝のものなのだから皇帝に返しなさい」として、税金を納めることを肯定します。しかし「神のものは神に返しなさい」と、一方で神様への忠誠を果たすことを求めることも忘れませんでした。
このようにして、言葉尻を捉らえてイエス様を陥れようとしていた人々の思いを逆手に取って、皇帝に対する忠実さと神様への忠実さが相反するものではないことを教えられたのです。けれども、両者を混同することも認めませんでした。
皇帝に対することとは、今日においては政治に対することだろうと思います。ですからイエス様のこの教えは、私たちの信仰と政治に対する向き合い方をも示していると思います。私たちが、信仰者であることにおいて、この世の政治を回避すべきではないこと、その一方で信仰と政治を混同すべきではないことも教えられると思います。(続く)
◇