一体、今は何年なのだろう。映画館のホームページを見てみると、こんなタイトルが並んでいる。「機動戦士ガンダム」「トップガン」「ウルトラマン」「ドラゴンボール」――。バブル絶頂期の1980年代か?と見まがうほどのノスタルジー感である。ここにもう一本、「究極の80年代映画」が殴り込んできた。「ロッキーVSドラゴ:ROCKY IV」である。
1985年(日本では翌86年)に公開され、シリーズものにしては珍しく、4作目にして最高の興行収益を上げたといわれている「ロッキー4/炎の友情」の再編集版。しかし、ただの「再編集」ではない。上映時間がオリジナルよりも長くなっているのはよくある話だが、これだけならDVDなどの2枚目に付属している「特別版」レベルの話となる。だが、本作のすごいところは、94分の上映時間のうち42分が未公開の新カットで編集されているところにある。つまり、映画の半分ほどが「新作」だということ。これはもう「別の映画」といわれても仕方ない。つまり、「ロッキー4.5」なのである。
コロナ禍で時間の空いたシルベスター・スタローンが、スタジオにこもって数百時間を費やし、音楽のチャンネル数も4チャンネルから100チャンネル(何と25倍!)にし、スクリーンサイズもアメリカンビスタ(1・85:1)からワイドスクリーン(シネマスコープの2・35:1)に変えている。そして何よりも、ロッキー・バルボアという一人のボクサーの人間ドラマとしても深みが増している(ここが「進化」ならぬ「深化」のゆえんだ)。
「炎の友情」と副題が冠された当時の「ロッキー4」は、終生のライバルにして親友のアポロ・クリードの死に、主人公ロッキーが直面させられる。そして彼を死に追いやったロシア人ボクサー、イワン・ドラゴとの死闘に身を投じていくという米ソ冷戦時代においてこそ輝きを放つ、シンプルかつ比喩的な「国家高揚映画」であった。当然賛否入り乱れ、単なるスポコン&アクション映画として楽しんだというのが、日本の大半の支持層だろう。一方で、「あまりにも独善的」とか「結局は米国万歳のプロパガンダでしかない」という辛辣(しんらつ)な批評も少なくはなかった。
だが2020年以降、コロナで身動きが取れなくなったスタローンは、その後の35年間を振り返る時間を得たという。そして現代の視点から当時を振り返り、本作「ロッキーVSドラゴ」を仕上げたという。それは、某SF監督が、最先端技術が開発されるたびに自身の昔の作品に手を加え、ファンとの間に軋轢(あつれき)を生み出してしまう「やらかし」とは次元の異なる「自己変革作業」である。
本作「ロッキーVSドラゴ」を観ると、35年前とは大きく異なっている点がある。それは、アポロの扱いだ。かつては「死亡フラグ」が立つ「やられキャラ」くらいにしか思えなかった。それくらい軽薄で、時代の変化についていけない取り残された人間として扱われていた。しかし本作は違う。なぜ彼がドラゴとの戦いに挑もうとしたのか、そして結果ではなくその過程をなぜ大切にしようとしたのか、を描いている。
本作で「深化」している最大のポイントは、アポロの人物造形である。これは、2015年に公開された「クリード チャンプを継ぐ男」が世界的にヒットしたことが影響しているだろう。「クリード」は、アポロの隠し子であったアドニス・クリードが父の面影を追い、ボクシングの世界に足を踏み入れる物語である。ここでアドニスは、今は亡き父アポロに思いをはせる。「ロッキー4」では「やられキャラ」でしかなかったアポロが、ぐんと人間味を増す瞬間である。この系譜で本作「ロッキーVSドラゴ」の人物造形は貫かれている。いや、むしろ「クリード」の成功によって、「ロッキー4」がリニューアルされたといってもいい。そして「クリード」の続編「クリード 炎の宿敵」は、アポロとドラゴの息子同士が世界タイトルマッチで対戦するという夢のようなクライマックスを描き、こちらも18年に大ヒットしている。
かつてあったもの、かつて絶対とされてきた解釈を「新たな視点から語り直す」といえば、聖書を読み込んでいるクリスチャンなら、イエス・キリストの次の言葉を思い出すだろう。
「あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め」と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5:43~44、新改訳2017)
この前半で語られている「あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め」という教え(律法)は、人々に浸透し、一種「絶対的」な価値観を当時のユダヤ人たちに与えていた。しかし、イエス・キリストが来られたことにより、時代は変化した(神の視点からするなら、それは天地創造の時から不変だといえるだろうが)。イエスを通して強調されたのは、「敵は愛す」べきであり、「迫害する者のために祈る」べきであるということである。言い換えれば、今までは「敵は憎む」べきであったということである。神のひとり子であるイエスが実際にこの地に来られたことで、律法の解釈が変わった。というより、イエスの言葉をそのまま引用するなら、「わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来た」(マタイ5:17、同)のである。ここでも律法が「深化」している。
冒頭で挙げたように、今夏の日本映画界は80年代真っ盛りである。しかしよく見るなら、「トップガン」を筆頭に、各々の作品がかつて掲げていたテーマを掘り下げるような「続編」が生み出されていることに気付かされる。そしてついに、「同じ話」なのに全く異なる味わいを醸し出す「深化」した作品が公開となる。70年代からのロッキーファン、私のように「ロッキー4」のファイトシーンに人生を変えられた50代ファン、そして「クリード」シリーズでロッキーを知った平成生まれファン、その全てが納得と感動を得られる一作、それが「ロッキーVSドラゴ」である。
時代がやっと、聖書にあるイエス・キリストの語りに追い付いてきた。そんな気にさせられる一本である。
■ 映画「ロッキーVSドラゴ:ROCKY IV」予告編
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