日本のキリスト教の現状
日本のクリスチャン人口は、全人口の1パーセントにも満たないといわれています。しかし、あちらこちらに教会があるのを見ると、「本当にそうなのか」と思ってしまいます。確かに日本のクリスチャンは少数かもしれませんが、一方でキリスト教の教団は日本に200近くもあるのです。驚きではありませんか。
教会の高齢化が進み、クリスチャン人口は減少傾向にあるとも指摘されています。たとえ若い人たちがクリスチャンになったとしても、教会の人間関係につまずき、牧師の偽善的言動に疑問を持ち、信仰生活そのものを捨ててしまうといった問題が、少なからず議論になっています。あるいは、教会には行っていても、多くの人々が霊的な成長を経験しないまま過ごしているのが現状ではないでしょうか。
これは深刻な状態です。私たちクリスチャンが、悔い改める必要があるのではないでしょうか。
日本宣教のために今できること
暗い話で始めてしまいましたが、視点を変えて「現状は落ちるところまで落ちている状態。これからは良くなるだけだ」と考えてみたらどうでしょうか。今、地上で生かされている私たちクリスチャンにできることは何でしょうか。今、それぞれの教派・教団にできることは何でしょうか。
日本宣教の鍵は主イエス様の祈りに応えること
飲食業を営むあるベンチャー企業の社長から、個人的に次のようなことを指摘されました。「あんた方、愛とか赦(ゆる)し合いとか言っているけど、これだけ違った教会があるんだから、俺みたいな一般人には何を信じていいか分かならないよ」と。聖書を少しでも読んだことのあるノンクリスチャンの人からすれば、率直な疑問でしょう。これには反論できません。なぜなら真実だからです。
主イエス様の祈りに耳を傾けてみましょう。
また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。(ヨハネ17:20、21)
主イエス様のこの祈りは、当時も今も変わらない神の御心ではないでしょうか。父と子が一つであるように、教派・教団の壁を越えて、私たちが心を一つにして祈ってこそ、この世の人々は真実の神を知ることができるということです。その逆も真なりでしょう。私たちクリスチャンが一つにならなければ、この世の人々が主イエス様を知ることは難しいのではないでしょうか。
教派・教団の壁を越えて
教派・教団の壁は、個人レベルではそれほど感じられないかもしれません。違う教派・教団の牧師たちが交わりを持つことは、比較的広く行われています。しかし、公に公開される場では、それは難しくなるようです。例えば、(私が知る限り)多くの教団では、その教団に属している教会が教団のホームページへリンクを張り、各教会が相互リンクをして支え合い、見える形で交わりを持っています。しかし、教派・教団が違う場合、それぞれの間にこのような相互リンクはほとんど見られません。
教派・教団の問題は、1世紀のコリント教会が直面していた問題と似ているのではないでしょうか。ある人は「パウロにつく」、別の人は「ペテロにつく」という愚かさを、パウロは第1コリントの手紙で説いています。教会を分断するのは多くの場合、聖書解釈の違いです。教会の権威、信仰義認、千年王国、神の権威と人間の自由意思など、それぞれに聖書解釈の幅があると思いますが、それが何であれ、キリストの体である教会を分断するほど大切なものでしょうか。それぞれの教派・教団の伝統や創始者の解釈は、それほど重要なものでしょうか。人間の意見にすぎないかもしれないものを、神の御心を示す基準としていいのでしょうか。
2世紀以降の教会指導者や宗教改革者たちから、私たちはいろいろなことを学べます。それらの過去のリーダーたちは、尊敬に値する人たちです。しかし、そこに優劣はないはずです。ある特定の聖書解釈をあまりにも強調し過ぎ、他の教派・教団に対し排他的になりやすい傾向に、私は大きな疑問を感じます。聖書から神の御心を知る権利と責任は、教派・教団ではなく、あくまでもクリスチャンであるお互い一人一人にあるのではないでしょうか。
信仰の規範は主イエス様
主イエス様は、信仰の創始者であり完成者です。その意味で、主イエス様は信仰の規範です。たとえどんなに立派なクリスチャンであっても、信仰の規範にはなり得ません。なぜなら、その人も単なる罪人であり、人間にすぎないからです。
父と子が一つであるように、私たちクリスチャンが一つになるよう、神様に祈りましょう。父、子、聖霊なる神様が日本中のクリスチャンを導いてくださるように、私たちがその導きに応えられるように祈りましょう。
私が奉仕する教会の群れは、カトリックとプロテスタントの分類でいえば、プロテスタントに属しています。しかし私は、カトリックでもプロテスタントでもない「クリスチャン」でいたいと祈っています。また、プロテスタントの中にも多くの教派があり、教団があります。長老派、改革派、バプテスト、ルーテルなど、どの教派にも属さない、また教団に属していたとしてもそれにしばられない「ただのクリスチャンでいたい」というのは、不可能なことでしょうか。
この世が主イエス様を知るために
主イエス様は、私たちクリスチャンの一致のために祈りました。この世が生ける神、真実なる神を知るために祈ったのです。私たちは、その祈りに応えるべきではないでしょうか。少なくとも、私たちが神の御国と義を求めているのであれば、主イエス様の祈りに応えるのが責務です。
教派・教団の壁を取り払い、父と子が一つであるように、私たちクリスチャンが一つになれますように。神の御国が日本の地に宿り、御心が行われますように。日本中に主イエス様の福音の波が起こされますように、心よりお祈り申し上げます。
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