本作はイラン映画(正確にはイランとフランスの合作)である。作中で話されている言葉はペルシア語。多くの日本人にとっては、まったく縁遠い世界の話ということになるだろう。しかし、「別離」「セ―ルスマン」の2作でアカデミー賞を受賞したアスガー・ファルハディ監督の手に掛かると、この縁遠いはずの異国物語が私たちのすぐそばでも起り得るのではないか、という気持ちにさせられる。だからファルハディ監督が「巨匠」として評価されるのだろう。
物語は、借金の返済ができず、刑務所に収監されている元看板職人のラヒムが、特別休暇(定期的にもらえる仮出所のようなもの)中に、ひょんなことから金貨17枚の入った落とし物のバッグを手に入れるところから始まる。ラヒムはかつて事業に失敗し、その時の借金を義兄バーラムに肩代わりしてもらったという過去があった。当時のイランは、債務者に支払い能力がない場合、保証人が全額負担せざるを得ないのと同時に、保証人は債務者を告訴することができた。バーラムによって告訴されたラヒムは、返すことができないほどに膨れ上がった借金をどうしたらいいか、考えあぐねる日々を送っていたのだった。そんな時に手にした金貨17枚である。彼はそれを借金の返済に充てることを考える。しかし、良心の咎めを感じたのか、その金貨を持ち主に返そうと決意するのだった。ここから物語は思わぬ展開を見せる。
ラヒムの行為は、メディアを通じて人々から称賛された。そして、美談として新聞やテレビで報道され、彼は一躍「時の人=英雄」に祭り上げられていく。鼻高々にラヒムの品行方正ぶりを言いはやす刑務所の人たち。また、彼の元には慈善団体から寄付の申し出があり、就職の世話まで申し出る者もあった。うわさはうわさを呼び、ラヒムに一目会おうと多くの人が集まってくるようになった。そんな人々の前で、吃音症の息子がとつとつと父ラヒムの現状を訴える様は多くの人の涙を誘った。こうした状況の変化を苦々しく思う保証人のバーラムだったが、周りのプレッシャーに負けて、しぶしぶ「借金はもういい」と言わざるを得なくなる。ラヒムにとってはすべてが順風満帆であった。
しかし、意気揚々と就職先として紹介された職場へ出か掛けたラヒムは、担当の職員が疑いの目で自分を見ていることに気が付く。なぜだと問いただす彼に職員は言い放つ。今回の一件はすべて作り話だという投稿がSNSにアップされている――。事態はここから急変する。悪意の投稿主をバーラムだと決めつけたラヒムは、彼との口論の末、殴り合いのけんかをしてしまう。その様子をバーラムの娘が撮影しており、それがSNS上で拡散したため、ラヒムの評価は「英雄」から瞬く間に「詐欺師」へと変わってしまう。戸惑うラヒムとその家族。そしてラヒムは、せっかく訪れた「幸運」を手放したくがないために「ある行為」を選択する。しかし、それがさらに彼を予想だにしない世界へと誘っていくのだった。
この先、ラヒムがどうなるかはぜひ直接映画を鑑賞し、各々の目で確かめてもらいたい。本作のテーマは、「ほんのわずかな善意」と「ちょっとしたうそ」がもたらす人間関係の破綻である。それに一役買っているのがSNS。もはや世界はグローバルなつながりの中にあり、SNSをめぐるトラブルは世界中どこにおいても起こり得る問題となっている。加えて、美談として他者を祭り上げるメディアの無責任さも同じである。さらに、「話が出来過ぎている」と疑いを持つ人の心根もまた、残念ながら万国共通であろう。
ラヒムは、自分のあずかり知らぬところで「英雄」に祭り上げられ、「詐欺師」とレッテルを張られそうになったとき、自らの手で「私は英雄である」ということを証明しなければならない事態に陥ってしまう。「それはメディアが勝手に書き立てたんだろう」とは言えない市井の人の弱さがそこにある。一方、彼は単に被害者というわけではない。ちょっと良い気にさせられたときに得た「棚ぼた式」の好待遇を、今度は「手放したくない」と思うように変わっていくのである。これが人間であり、ここに人の弱さがある。
そして、これらの根底には「疑い」の恐ろしさがある。人は美談を求めている。しかし、いざ美談に出会うと、今度はそれを疑ってしまう。昨今、姦(かしま)しく叫ばれている「フェイクニュース」は、その言葉を発する者も含めて、何が「フェイク(偽物)」で、何が「トゥルース(真実)」なのかを曖昧にしてしまう。そういった意味で諸悪の根源は「疑い」である。
観終わって、こんな聖書の言葉が頭に浮かんだ。
義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。(マタイ5:6)
今、「正しさ(義)」の信用価値が下がってきている。誰かが「正しさ」を声高に叫ぶと、別のところからその正しさを疑う声が上がる。すると正しさを唱えていた者は戸惑い、疑いの声に彼の主張はかき消されてしまう。「正しさ」が「疑い」にのみ込まれてしまうのである。そうしてこの世界は混沌としていくことになる。だからこそ、聖書は「義に飢え渇く」ことの尊さをはっきりと宣言しているのだろう。そして「その人は満ち足りる」と言う。この言葉を私たちは自らの生き方に「内住」させるべきではないだろうか。
本作は、人間のささいなすれ違いが大きな悲劇を生むことを、リアリティーあふれる人間ドラマとして描き出している。鑑賞後、きっとしばらく席から動けないほどの衝撃を受けるだろう。そして、自分だったらどうするか考えずにはおれなくなるだろう。ぜひご覧いただきたい一作である。
■ 映画「英雄の証明」予告編
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