「カメラを止めるな!」で時代の寵児(ちょうじ)となった上田慎一郎氏が脚本を担当し、同作で撮影監督を務め、第42回日本アカデミー賞優秀撮影賞を受賞した曽根剛氏が監督の本作「永遠の1分。」 97分という上演時間に対し、込められたメッセージは思いのほか濃いものとなっている。テーマは東日本大震災。あれから10年余りがたち、その頃を振り返るとともに、この間に何が変わり、何が変わらなかったかを、上田、曽根両氏のユニークな視点で描き出している。
米国人映像ディレクターのスティーブ(マイケル・キダ)は、カメラマンの相棒ボブ(ライアン・ドリース)と共に、東日本大震災から10年が経過したことを踏まえたドキュメンタリーを撮影するよう命を受ける。適当な言い訳を作ってオリジナルの忍者映画を撮りたいと考えていた彼らだったが、実際に被災地を訪れ、その惨状を知ったことで、あるアイデアが生まれる。それは、東日本大震災を題材にしたコメディー映画を撮るというもの。
スティーブが、震災を扱った舞台を上演している劇団に出くわし、楽しそうに芝居をする被災者の劇団員たちと、それを楽しそうに鑑賞する人々の笑顔に接したことで、「笑い」こそが人々の心を癒やすのではないか、と思うようになったのである。しかしそれは、さらなる困難、トラブルの始まりとなってしまうのであった――。
「震災とコメディー」というおよそ対極にある事柄をミックスしてまとめ上げようという営みは、まさにホラーとコメディー(今ではよくあるパターン)、映画内世界と(撮影など含む)現実世界をコラボさせて一つの作品に仕上げた「カメラを止めるな!」を踏襲し、発展させたと考えるなら納得できる選択である。
劇中でも、この一見「水と油」である「震災コメディー」に対するバッシングが描かれているが、一歩間違うととんでもない不謹慎な作品と評されてしまう。そうならないよう、いろいろな伏線が仕掛けられている。正直この伏線がきれいに回収されているとは言い難い。やはりテーマが天災という私たちがどうあらがってもあらがいきれないものであるため、その衝撃や痛みを「笑い」が受け止められるかという問題は払拭(ふっしょく)しきれていない。だからコメディーの背後には、人々の涙があり、失った家族への喪失感が存在するということを描かなければならなくなる。そうすると劇中劇として進行するコメディーとは裏腹に、劇中で展開するリアルなストーリーはむしろシリアスさを増してしまうことになる。
こうなると、作品を観ている私たち(現実の観客)は、この映画をどうカテゴライズしていいのか戸惑ってしまう。これは「コメディー映画を生み出そうとするシリアスドラマ」なのか、「コメディータッチの震災映画」なのか、である。このバランスがうまくいっているとは思えなかった。特に後半で、日系シンガーに焦点が当てられて物語が展開していくと、この「食い合わせの悪さ」が際立ってしまったと思う。
しかし、これらの違和感を補って余りあるのが、実際に被災した人々に語ってもらったという「笑い話」のリアリティーである。
考えてみると、喜怒哀楽というように私たちの感情は4つに(勝手に)カテゴライズされてしまう。だが、これら4つは異なるものなのだろうか。怒りながら笑ったり、悲しみと喜びが交じり合うような感覚に陥ったりすることはあるのではないだろうか。そう考えると、悲しみの中で笑い合うことや、笑いの中に込められた悲しみというものこそ、実は人の現実生活に則した「生の感情」と言い得るのではないだろうか。
被災者が突然襲ってきた悲劇を前に体を動かし、心を保つために浮かべた笑いは、それが他者と共有されるとき、「笑い声」となり、「おもしろい話」となり、人々に伝播(でんぱ)していく。本作はそのリアリティーをつかみ取ろうと必死になる製作者側の思いが透けて見える。
そもそも曽根氏は、本作が生まれたきっかけを次のように語っている。
被災者でもない私が3・11を描くことに関しては正直後ろめたい気持ちが少なからずありました。当時は震災直後に私は逃げるようにアメリカに渡ったのです。その後、2012年~2013年にかけては取材などで何度か被災地を訪れましたが、その後ろめたさはむしろ強くなりました。私には何もできることがないのではないか、映画を撮ることも不謹慎ではないかと。それから数年を経て、2019年に本作の制作が始動、映画を受け入れてくれ、気持ちを前向きにしてくれたのは、被災地の方々でした。その過程はすべて映画の中で描かれています。
つまり、真の主人公は監督の曽根氏自身であり、彼の活動と葛藤をフィクショナルな形で投影したのが本作である。そういう見方をするとき、そこに込められた熱量に、私たちは感動を覚えずにはいられないだろう。
こういった背景を知り、本作を見直したとき、心に浮かんできた聖句がある。
私が福音を宣(の)べ伝えても、私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないのです。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。(1コリント9:16)
これはパウロが、かつてはキリストの福音を否定し、迫害する者であったが、今はそれを伝えることに使命を見いだしていることを伝える部分である。「かつての失敗」があったからこそ、今は福音を伝えることに命を懸ける――。ある種、鬼気迫るほどのパウロの熱量が感じられる箇所である。
福音伝道者にとっては「福音宣教」が使命となる。そして映画監督にとっては「映画製作」が使命である。そうであるからこそ、「それをしないなら、わざわいである」とまで言い切ることができる。
本作は、アカデミー賞候補に挙がる類いの作品ではないと思うが、この一作に懸ける曽根氏の熱量は、パウロのそれに連なるものではないか。そんなことを想起させてくれた。ぜひ曽根氏の熱量に触れるために、劇場へ足を運んでもらいたい。
■ 映画「永遠の1分。」予告編