「あなたご飯は食べましたか?」と脈絡もなく聞かれたら、あなたはどう答えるだろうか。パンは食べていたが白米は食べていない場合、白米は食べていないという意味で「いいえ。ご飯は食べていません」と答えることもできるし、パンは食べたので食事は済んだという意味で「はい。ご飯は食べました」と答えることもできる。質問の文脈や質問者の意図が回答者と共有されていない状態では「ご飯」が「白米」を指すのか「食事」を指すのか分からないので、厳密には答えることができない質問だとも言える。「あなたは進化論を受け入れますか?」という質問も、実はこれと同じく厳密さを欠いた質問であることに本書『生命の謎』は目を向けさせる。
本書は安易な進化論否定本ではない。むしろ部分的には肯定しているとも言える。そして、もちろん進化論を全肯定するものでもない。進化論、特にダーウィン進化論が指し示す概念は3つあると本書は場合分けする。進化説、自然発生説、共通起源説だ。このうち進化説に関しては本書は問題なしとの立場を採る。生物は不変ではなく、変化するメカニズムは説明できるし、観察もされているからだ。現にDNAが次世代にコピーされる際に一部異なる配列でコピーされる「変異」は、新型コロナウイルスの変異株や薬剤耐性を獲得した病原体の発生原因ともなり、社会的に大きな影響も与えている。本書はそのような遺伝上の生命科学的な現象を否定するものではない。
その意味で、本書は安易な進化論も安易な創造論も否定している。安易な創造論とは、科学的に検証されている分子生物学の成果である1種内での世代間遺伝変異をも否定し、現実に目を背ける。安易な進化論とは、1種内での世代間遺伝子変異があるからと言って、同様の連続的変化を経て異なる種や異なる高次分類群までが成立し、しかも最初の生命まで自然発生したと証拠もなく信じる論理の飛躍だ。本書の立場からは、これら2つの安易な見解は無根拠な両極端として排除される。本書は何より根拠を重視している。
では、最初の生命は自然発生したとする自然発生説、すべての生物は共通の祖先から進化したとする共通起源説はどこに問題があるのか。本書が徹底的な理詰めで検討するのはこの2説の科学的、論理的な妥当性だ。
そのために本書はまず、議論の土台となる生命とは本質的に一体何であるのかについて、分子生物学の成果に基づき深く考察する。それだけなら単なる生物学の啓蒙書と同じなのだが、本書の特色は、異分野である計算機科学の視点を踏まえている点に見られる。ヒトだろうがバクテリアだろうが全生命に共通する機構、DNAータンパク系の働きは、DNAに記録された4種の文字からなる暗号化された設計情報と、設計図複製機構、本体製造機構だ。計算機科学の視点から見ると、この機構は20世紀最高の頭脳を持った数学者、計算機科学者、物理学者、工学者であるジョン・フォン・ノイマンが考案した仮想空間、セル・オートマトン上の自己複製機械と同じだというのである。本書ではこの両者を抽象化し「ノイマン型の自己複製機械」と呼称して議論の中心に据えている。
この視点から見た生命は、設計図であるDNAと設計図を複製し本体を組み立てる機能を有した多様な分子機械であるタンパク質群を有した存在であり、まさにコンピューターの一種であることになる。しかも、コンピューターは単に情報処理しかできないのに比べ、生命は情報処理を行うコンピューターでありつつ、同時に自身と同じものを製造する製造機械でもあるのだ。これを機械設計者やプログラマーなどの「作ることを仕事としている者」の立場から見ると、あまりの複雑さに頭がクラクラしてくる。筆者はソフトウェアエンジニアなので、情報処理の仕組みを作り始めてから仕上がるまでの過程を何度も経験している。そのため、本書が示すように「複雑な情報処理システムは進化論が言うように段階的な改善を経て無から自然にできることなどない」ことは体感的に理解できる。仕組みづくりの視点から生命の機構を見つめた瞬間、自然発生説の採択はできなくなってしまうからだ。
共通起源説はどうか。情報処理の仕組みというものは実際、ある程度まとまった機能を複数作成し、それを一気に組み合わせ、それでも失敗するので大小の修正を繰り返して完成するものだ。一つの機能しかない仕組みを延々と微調整しても完成はしない。異なる生物種には異なる仕組みが備わっている。しかもバクテリアなどに比べて脊椎動物などの仕組みは恐ろしく複雑にできている。共通起源説は1つの種から多様な種が段階的に発展していったと説くが、やはり仕組みづくりの観点から、これはあり得ない。互いに依存した複数の機能はまとめて設計して作って組み合わせない限り存在できないからだ。確かに異なる生物種間で共通して見られる機構はあるにはある。だが、これは仕組みづくりの視点から見ると、「一度汎用性を持って作成した機構を他所でも使い回す」という設計効率のために当然存在するノウハウの帰結にすぎない。プログラミングの経験がなくても、料理、家具、プラモデル、折り紙など、説明書を読んで何かを組み立て、組み合わせて作った経験があれば、ある程度複雑なものは手順、位置、量などを正確にしないと作るのにどうしても失敗することが分かると思う。
では、生命はどう誕生して、なぜ多様な種を構成するのか。これが本書の問う「生命の謎」だ。
本書の著者、中川豪氏は魚類学を専攻した京大卒のブレザレン系クリスチャンの高校教師で、米インスティテュート・フォー・クリエーション・リサーチで創造論を学んだ後、本書を執筆した。本書の想定読者は信仰者ではなく、むしろ未信者だ。もちろん信仰者が読んでも有益だが、未信者に直接的に福音を伝えるのが本書の目的ではないこともあって、本書に聖書からの引用はほとんどない。それでも本書に言及はされていないが、一つ思い出す聖書箇所がある。ヨブ記38章から41章のくだりで、神がヨブに自然の法則と生命の仕組みを創った事実を多数例示する場面だ。ヨブ記の執筆された時代に比べると飛躍的に高い解像度で、本書は生命の仕組みについての多くの例を提示する。自身の潔白を証明するために神を訴えるヨブと、宗教、特にキリスト教を中心とした一神教の害悪を訴える無神論の進化生物学者、リチャード・ドーキンス氏が重なる。
神は神の視点から生命の仕組みをもってヨブに反論した。著者は計算機科学の視点から生命の仕組みをもってドーキンス氏に反論した。副題にある通り、本書はドーキンス氏の『盲目の時計職人』への反論という体裁をとっている。筆者も両書を比較しつつ読んだ。実は、反論の妥当性を検証しようとして途中脱線を繰り返し、調べ物をしながら何度も読んだため、申し訳ないことに献本してくださってから書評を書くまでに2年もかかってしまった。その間、本書はずっと筆者の机の上にあった。進化論に関して筆者は著者と立場を同じくするため公平なジャッジとは言えないが、少なくとも筆者が見る限り、著者の反論は妥当だ。
『盲目の時計職人』のまえがきでドーキンス氏は、複雑なデザインがなぜ生じたのかについて、説明することが至難の業であることを認め、読者に自説を信じさせるために「説得すること、また扇動することすら狙っている」と目的を正直に述べている。ドーキンス氏自身が『盲目の時計職人』は「冷静かつ客観的な科学書ではない」と断言しているのである。清々しくすらある。反面、本書『生命の謎』は冷静かつ客観的な科学書だ。科学書とは科学を論ずる書である。では、科学、特に自然科学とは何か。自然科学とは、自然を観察すること、観察して得られた洞察から現実の背後に存在するであろう法則を予想し、それを説明する論理的に妥当な仮説を打ち立て、その仮説による予言が正しければ成功し、間違っていれば失敗する実験を組み立て、検証する行為だ。
そう科学を定義する場合、実は自然発生説や共通起源説は厳密には科学ではない。過去に起こった出来事を対象にしているため、再現可能な実験による検証ができないからだ。だから科学というよりむしろ歴史学になる。歴史学は人類史だけではない。自然史という分野もある。生物史は自然史の一分野であり、自然発生説や共通起源説は本来は生物史における研究対象に該当するものだ。歴史学であれば証拠と論理の整合性が学説の成否を決定する。本書は自然発生説や共通起源説には証拠との整合性がないことを示す。
「進化論を採用するか?」この問いに対して本書は「DNAの世代間変異は実験で検証できる。一つの種内で起きるレベルの進化は観察、実験、検証を経ており、これを反証する事実が観測されるまでは科学的な事実の地位を享受する。しかし、自然発生説や共通起源説は証拠とされるものも証拠の妥当性を欠き、実験によって検証もされていない仮説に過ぎないだけでなく、仮説としての論理的妥当性すら棄却されてしまう」と答える。まさに「ご飯は食べたか?」の問いに対して「食事をとったかどうかを聞くなら食事はとったが、白米を食べたのかどうかを聞くなら、白米は食べておらずパンを食べた」と答えるようなものだ。そこには説得も扇動もなく、厳格な定義付け作業と、仮説への論理的な検証がただただ流れているのみである。
そして、くどい。筆者は褒め言葉として「くどい」を使う。なぜなら、筆者も著者と同じく、くどい説明をする人間だからだ。なぜくどいことが良いことになるのか。この文脈における「くどさ」とは、誤解する余地を一つずつ論理的に潰していく地道な労苦であり、故意・不作為を問わず、読者や論敵の犯し得る誤解を未然に防ぐための愛だからだ。ニュートラルな心を持つ人がこの本を読めば、「なるほど、論理的にはそうなるよね」と納得するかもしれない。だが、無神論を熱烈に信じる人がこの本を読めば、この「論敵の誤解を予防する愛」はにわかには受け入れられないだろう。論理では対抗できないからだ。神が天と地を創ったのなら、神は人の手で造ったようなものには住まないと論理を語った初代教会のステパノが石を投げられたように、論理で対抗できない者たちが耳をふさいで叫び投げる暴言の石が著者にも飛んでくるだろう。
実際、筆者も改宗前はドーキンス氏のように無神論者であり、神を人の想像の産物だと考え、進化論の3説を含め科学は絶対的真理だと根拠なく「信じていた」。高校の頃、DNAやヘモグロビンのヘムの分子模型を一人で組み立てるほど分子生物学には興味があったが、それが自然発生したものであると信じ疑ったことがなかった。模型のDNAでも自分の手なしには組み上がらないという事実を目の前にしてすら、本物のDNAは自然に組み上がったなどと矛盾したことを平気で考えていた。今思えばそれは科学ではなく、宗教的信仰にすぎない。
安易な進化論も安易な創造論も、根拠に乏しい。本当の科学と本当の信仰は、実は根拠に基づいている。
だが、根拠なく信じている熱狂的信者ほど、自身の信仰の根幹となる教理を否定されたときは怒る。それも論理的に完膚なきまでに否定されたとなれば、その怒りは大きなものになるだろう。おそらく無神論者時代の筆者が本書を読めば、怒ったのかもしれない。だが、無神論者の筆者は物理学に出会い、物理学に出会ったおかげで改宗後、計算機科学に出会った。分子生物学に親しみ、計算機科学に出会ったおかげで、自分の体についての情報が書かれたDNAを構成するATGCの4種類の文字からなるコードと、自分が書いたプログラムにより生成される0と1の2種類の文字からなるコードの類似性を認識はしていた。本書はその認識を見事に言語化した。それらの出会い一つ一つに筆者を導いたのは神だと今では証しできる。そして、そのような人生を通らされていなければ、これほどの熱量を持って本書を自分ごととして読み、この文を書いたりはしなかっただろう。すべては神に感謝である。
金融庁の怒りの指導を受けても、みずほ銀行のシステム障害が続いたのは他の理由もあるが、第一の理由はそのシステムの複雑さだ。単純なシステムにはバグ(設計ミス)が混入する隙間はない。一介のソフトウェアエンジニアにすぎない筆者がオペレーティング・システムのソースコードを眺めると、その複雑さに畏敬の念をすら感じる。今この記事を読む人の約7割はスマホから読んでいるはずだが、あなたのスマホのオペレーティング・システムは何千人という世界最高水準のプログラマーたちが地道に大量のバグを潰してやっと動いている代物だ。複雑なシステムには必ずバグが生じる。そしてバグは永遠になくなることはない。人間は全知全能ではないので、どこかでミスを犯してしまうからだ。
しかし、無限にも近い複雑さを持つのに、すべての挙動を把握し、すべての例外に事前に対策を打っている堅牢な大規模システムをバグ一つなく一人で記述したプログラマーがいたとすれば、単なる天才ではなく、間違いなく同僚や同業者から「神」と呼ばれるだろう。そのシステムとは、物理学、化学、分子生物学で確認された各種の法則であり、この宇宙であり、生命であり、あなただ。
コンピューター内の仕組みを記述する「ことば」をプログラミング言語と呼ぶ。世界の仕組みは科学法則という「ことば」によって、生命の仕組みはDNAという「ことば」によって記述されている。
新約聖書のヨハネによる福音書は以下のように始まる。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない」
「ことば」は記述者なしには存在し得ない。情報システムがプログラマーという記述者なしには存在しないのと同じだ。
だから、言える。信じられる。この世界を、生命を創造した全知全能の神が存在するのだと。あなたが採択するしないは自由だが、それが本書の示す帰結だ。そして、無神論者を辞めた筆者もそれに同意する。それに同意するクリスチャンの科学者の証しが本書の最後の最後で短くだが、複数出てくる。これこそ伝道だ。
キリスト教の成立に大きな役割を果たした伝道者パウロはイエスに出会い、ステパノの殺害に賛成するほど熱心な反対者から命懸けで布教するイエスの熱心な信奉者になった。筆者は、卒業要件必須科目のキリスト教概論を担当する旧約聖書学者と路傍伝道中の宣教師に出会い、くどい無神論者からくどい福音主義者になった。神による出会いは人を変える。本書を通して著者に出会った人は、生命の定義とその誕生の謎についてぼんやりとした認識を持った人から、明確な認識を持った人になり、そのうち何人かは神を信じることを選ぶと筆者は信じる。そのように人を変える静かな力強さが本書にはある。
進化論を信じるという人も、進化論を信じないという人も、まずはこの本を読んでみてほしい。その上で、自分が「信じる」とか「信じない」とか言っている概念が一体「どの概念」と「どの概念」なのか、まずそこから論理的に綿密に検討してみてほしい。それは知的苦労を伴う作業ではあるかもしれないが、本書を読了した後「生命の謎」の存在が、今まで考えたこともなかったくらい、くっきりとあなたの前に現れる。その背後に何を想定するのか、一つの選択肢に縛られることはもうない。あなたは自由になる。その後で議論を再開しても、遅くはないだろう。
■ 中川豪著『生命の謎 ドーキンス「盲目の時計職人」への反論』(アートヴィレッジ、2020年1月)