宣教団体「ユース・ウィズ・ア・ミッション」(YWAM=ワイワム)の東京支部による伝道セミナー「ミリオンライツ」が全9回のビデオシリーズとしてユーチューブで公開された。長年の経験に基づいた実践的な伝道方法を伝えるもので、日本のクリスチャンが福音を伝える励ましと学びの機会になるよう制作したという。同支部のマーク・アナンド宣教師と藤橋仰氏らが手掛けた。
セミナー名の「ミリオンライツ(A Million Lights)」は「百万の光」を意味し、すべての人を照らすまことの光であるイエス・キリストを、牧師や伝道師だけにとどまらず、日本のクリスチャン100万人が、それぞれ福音を伝える者として教会の外に送り出される夢と希望が込められている。セミナーの説明には、「日本のクリスチャン人口はまだ小さいかもしれません。よって、日本が国として直面している霊的なニーズは大きいものです。しかし、神様は日本の信徒たちを整え、日本中だけにでなく、世界中にも福音を伝える者として送り出したいと願っておられるはずです」とある。本記事では、伝道を学びたい人がビデオシリーズの概略を知ることができるよう、各セッションの要約を伝える。
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第1セッション「課せられた急務と超えるべき障害物」
第1セッションでは、マタイによる福音書18章11~12節の失われた羊の例えを引用。羊飼いが行方の分からなくなった1匹の羊のために、99匹の羊を置いて連れ戻しに出掛ける話だが、日本では100人いれば99人が失われた羊という状態にあるとし、伝道が急務であることを訴えている。また、受動的であっては福音を伝えることができず、福音を伝える意図と目標をはっきり持って伝える必要があるとしている。
第2セッション「会話を始める」
第2セッションからは福音を伝える順序として、1)ハート、2)十戒と炎、3)十字架と空の墓、4)花嫁との婚礼と別の女との別れ、の4ステップを挙げ、野球のホームベースから出発して、1塁、2塁、3塁を回ってまたホームベースに戻る様子に例えて説明している。
ホームベースに当たる1つ目の「ハート」が表しているのは、伝道が愛で始まり、愛で終わること。家族を愛することの大切さ、伝道すること自体が愛の行為であること、自分の中から愛を絞り出すようなことは必要なく、伝道をしようとするときに神が愛を与えてくださること、「愛の神」という概念すら多くの人が持っていない日本でそれを伝える必要性などを表している。
次に、聖霊を投手、福音を伝える相手をボール、伝道者を打者に例え、伝道の機会は聖霊が与えるとしている。打者がすべてのボールを打とうとしても打つことができないように、福音を伝えようとしてもおじけづいたり、機会を逃してしまったりすることはある。しかし、本塁打を打つ打者も空振りを恐れずにバットを振り、練習を継続するように、失敗を恐れずに福音を伝え続けることが大切だ。
会話を始めるに当たって、その人が必要としていることを教えてもらえるよう、神に祈ることもできる。また、会話を始めてから、「歴史上この世界に最も良い影響を与えたのは誰だと思いますか」「あなたの人生に最も良い影響を与えたのはどんな人ですか」といった質問に移るのもよい。なぜなら相手が同じ質問を自分に問うこともあり、イエス・キリストが自分にどんなことをしてくださったのかを伝える機会が大きく開かれるからだ。アナンド宣教師は、伝道の現場で実際に試したことのある幾つかの方法を提案するとともに、それぞれの置かれた文脈に合わせてクリエイティブな質問を繰り出していくことを勧めた。
マタイによる福音書4章18~20節で、イエスは後に弟子となるペテロとアンデレに出会ったとき、彼らが漁師であることを把握し、彼らにとって分かりやすく身近な「漁」の話を霊的な話題の導入にした。しかし、ヨハネによる福音書4章4~10節では、イエスは「漁」はなく「水」をきっかけに話を始めている。イエスが霊的な事柄を話そうとしていたサマリヤの女がその時、水をくみに井戸にまで来ていたからだ。ここでイエスは、「水を飲ませてください」と目に見える自然な話題から、「生きた水を与える」という霊的な話題に方向転換させており、私たちもここから伝道の方法を学ぶことができる。
このような話題の方向転換を現代に応用すれば、スーパーヒーローの映画を観た友人に、神から超常の力を授かったサムソンの話をしてみることや、花や自然を見ている人に、その起源についてどう思うか聞いてみることなども考えられる。急に神について話さずとも、なめらかに会話の方向転換はできる。このように福音を伝え始められる段階になったら、自分を含め世界のすべてを創造した神が、無限の愛を持っておられ、本質的に善であることを話してみるよう、アナンド宣教師は奨励している。
第3セッション「救い主の必要性を訴える」(前部)
「救い主の必要性を訴える」については、第3から第5まで3つのセッションが割かれている。福音を伝える順序の2番目に当たる「十戒と炎」は、神の義を表現しており、どうしても通過しなければならない1塁に位置付けられている。それは正義を行う神は、悪や罪を放置しておくことはなく罰するからだ。罪は話題にしにくく、避けがちになってしまう。このテーマのために3つのセションを費やしているのは、伝道の現場で罪の話題を最も多くの時間を割いて話すためではない。最も伝えづらく、「愛の神」が同時に「義の神」である点について、現代の伝道ではなおざりにされたり、あまり重要視されなかったりするからだ。
コリントの信徒への手紙一1章18節にあるように、十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものだが、救われる者には神の力だ。救いを受ける前の人にとっては、愚かに感じられる話であることを初めから分かった上で、それでも伝えるのが伝道だ。そのため、まずは自分の罪の経験から打ち明けるのもよいだろう。そして、相手が過去に犯してしまったかもしれない罪について質問したり、今の生き方のままで天国のような完全な善の世界に入れると思うか聞いたりしてみてもいい。救いを必要としている事実に気付かせることができるのは聖霊しかいない。しかし、伝道する者が神の道徳的基準を提示するなら、神は救いの必要性に目を向けさせてくださるはずだ。
伝道する際に自問すべきことは、私たちが相手に「口先の信仰告白」と「本当の悔い改め」のどちらを願っているかだ。イエスを受け入れる祈りを単に復唱することと、罪が何であるか理解しそれを悔い改めることは異なる。ルカによる福音書15章10節では、神の天使たちの間に喜びをもたらすものは、罪人の悔い改めであるとされている。救いの良き知らせについて理解するためには、罪についての悪い知らせについてまず理解しないといけない。ローマの信徒への手紙2章14~15節にあるように、十戒を知らない日本人の心にも神の律法の命じる行いは記されているため、殺人や姦淫(かんいん)、盗みが悪いという認識はある。律法は救いへの道を整え準備する機能を果たす。この前提に立ち、セミナーでは十戒と山上の垂訓を対比させつつ、一つずつ戒めについて解説している。
律法は、愛の神が人に課したものであり、突き詰めればそれ自体は愛に要約される。しかし、人間がこれを一つも破らず完璧に守り通すことはできない。そして、人間は戒めを破ることで神との関係を自分から壊してしまう。律法を守るため、自分の中にない愛を振り絞ろうとしてもその愛は人間の中にはない。神に救っていただくほか希望がない。律法は人間がいかに神を必要としているのかを示すのだ。
第4セッション「救い主の必要性を訴える」(中部)
罪について伝える方法は、証しや直接的な説明、質問など、複数のバリエーションがあり得る。第4セッションでは、それぞれの方法における具体的な話し方の例を挙げている。また、神の前に立つ人間の傲慢と謙遜の違い、その見分け方を例話と具体的な質問法によって示している。すでに自分の罪を自覚し神の前に謙遜な人の場合は、1塁を通り過ぎて、救いの話題に移るツーベースヒットを打つことができる。しかし、ほとんどの人は悪い面はあっても基本的に自分は良い人だと考えているため、まずは裁くためではなく、愛によって律法を伝え、救いの必要性が認識されなければならない。
第5セッション「救い主の必要性を訴える」(後部)
第5セッションでは、罪人の受ける結果としての「炎」(裁き)の意味と、それを説明する意義について、例えを交えて解説している。箴言1章7節にあるように「主を畏れることは知恵の初め」だ。これは、地獄を脅し文句のように用いる間違った「恐れ」ではなく、救いの必要性が正確に愛をもって伝わるようにする神についての正しい「畏れ」についてだ。
例えば、飛行機に乗る人に、「パラシュートをつけた方が良い」と言うだけであれば、パラシュートをつけることが不快であったり、周囲の目線を気にしたりして、その人は簡単にパラシュートを手放してしまうだろう。しかし、「やがて全員がこの飛行機から飛び降りなければならなくなる。パラシュートがあれば死ななくて済む」と説明すれば、その人は不快さも周囲の嘲笑も気にならず、パラシュートをもらったことを感謝するだろう。正しい説明を聞かなかった人は迫害や困難に直面するとつまずき、パラシュートを手放した人のようにイエスを投げ出してしまう。罪について話すことは難しく、抵抗感を覚えることもあるかもしれない。しかし、罪についてはっきり伝えるなら、聖霊がその人の良心をかき立ててくださる。
第6セッション「神が私たちのためにしてくださったこと」
第6セッションは、「福音とは何か」「どうすれば永遠の命を受けることができるのか」に焦点を当てている。野球の例えでは、2塁の「十字架と空の墓」で表されている。「私たちの罪を負って十字架で死ぬために、神がその独り子を送ってくださった」とだけ言って理解する人も中にはいる。聖霊が理解させてくださったからかもしれないし、子どもの頃から聞いていたからかもしれない。しかし、このように限られた情報だけでは信仰の決心に至らない人もいる。状況次第では、アダムとイブによる初めの罪から、羊のいけにえによる一時的な罪の覆い、そしてイエスの話と、聖書全体にわたって話すこともできる。また、イエスが誰であり、なぜ死ななければならなかったのかについて、聞いた人が理解したかどうかを質問するのにためらう必要はない。
第7セッション「救いを受けるためにしなければならないこと」
第7セッションは、3塁の「花嫁との婚礼と別の女との別れ」。これは罪を捨て、イエス・キリストに信頼することを結婚に例えたものだ。結婚するとき、花嫁の立場から見れば、花婿が他の女性を離れて自分だけに関心を持ってほしいと願うのと同じように、人は罪を離れ、イエス・キリストに従う心を持つ必要がある。もちろん花婿が完璧な人間になるなどとは花嫁は思わないのと同じように、イエス・キリストも罪人の弱さを知っておられ、私たちは「弱い自分を導いてください」と祈ることはできる。このように罪から神に向きを変えることが、悔い改めだ。そして悔い改めは、イエス・キリストへの信頼を前提としている。
イエス・キリストを神の階に行くエレベーターに例えるなら、イエス・キリストを信頼できない状態は、現在いる階に片方の足を置いたまま、もう一方の足をエレベーターに置くようなものだ。それではドアが閉まらず、エレベーターを使うことができない。エレベーターに乗るためには、両足とも現在の階から離してエレベーターに完全に乗り移らないといけない。そして、乗り移るにはエレベーターを信頼していなければできない。人にはただエレベーターに乗って身を任せることしかできない。自力で自分を救おうとすることは、下に潜ってエレベーターを押し上げ、上の階に行こうとするようなものだ。エレベーターに乗るとき、気にせず乗る人もいれば、震えながら乗る人もいる。信頼の大小は人により異なるとしても、結局エレベーターは上に上がっていく。大事なことは信頼の大小ではなく、イエスに信頼を置き委ねることだ。
そして、伝道の最後の段階は、出発点だったホームベースの「ハート」、つまり「神の愛」に戻ってくる。救いの必要性、神が私たちにしてくださったこと、救いを受けるために必要なことを理解した人を、神の愛の家(ホーム)に招き、神の家族として受け入れることだ。福音のメッセージを単に知的に理解し同意するだけではなく、心から悔い改め、イエスに信頼することが救いには必要だ。伝えられた人が福音を理解しているかどうか不明な場合は、「神と正しい関係になるためには何が必要だと思いますか」と質問してみてもよい。その答え次第で福音についてもっと説明が必要かどうか分かる。「この罪やあの罪を手放さないといけないのですか」と聞いてくる人には、手放す覚悟があるかどうかを聞くことができる。金持ちの青年がイエスを去ったとき、イエスは彼を引き止めなかった。そのような人は少なくともイエスを選択することの重大さを認識する境地にまでは進んだということだ。聖霊はそのような人の心の中で働き続けることができる。伝道者はその人のために祈ればよい。
このセッションでは、イエスに従うことは、自力で自分を変えるのではなく、イエスを心に招き入れることから始まることを説明している。また、信仰決心の祈りについては、祈り方が分からない人には定型のものを伝えることも有効だとしつつ、神との関係をつくる上で、可能なら自分の言葉で祈ることが望ましいとしている。救いに至るまでの過程の最初から最後まですべてに、一人の伝道者が関わり続ける必要はないし、関わることができない場合もある。そのような時は、その人が次に出会うクリスチャンにその役目を引き継げばよい。神が定期的にその人と関わる機会を下さったのなら、喫茶店などで定期的に話をする機会を設けることもできる。
「空気を読む」という言葉があるように、伝道においては「どの塁にいるかを読む」ことが重要だという。十字架の話を聞いていても自身の罪について認識していない人がいれば、1塁に戻る必要がある。一方で、すでに自身の罪を自覚し、救いの必要性を認識している人がいれば、すぐに2塁に進むこともできる。
第8セッション「創造的な方法で福音を伝える」
第8セッションでは、タイトル通り「創造的な方法で福音を伝える」ことを共に考えていく。内向的な人もいれば、外向的な人もいる。人それぞれに受け入れやすい伝え方があるため、伝える人たちも多様な気質、性格であった方がよい。クリスチャンの持つ霊的な賜物や才能は多様だ。神が自分に与えた自分らしさを伝道の中で発揮することを考えることで、自分の個性に最も反応しやすいタイプの人たちが見えてくる。他人の伝道アプローチを単にまねするのではなく、神の与えた自分らしさを表現しながら伝道できるのであれば、伝道を楽しいと感じるようになるはずだ。伝道が退屈な仕事のように感じられるなら別の方法を試してみてはどうだろうか。
対面で話し合う一対一の伝道の他にも、SNS伝道や手紙伝道、イベント伝道、音楽伝道、芸術伝道、料理伝道、スポーツ伝道などが考えられる。自分と共通の関心を持つ人たちを探すことは、効果的な伝道戦略になる。音や映像をインターネットで配信したり、漫画や本を書いたり、ホームレスの人たちのために炊き出しを行ったり、病院や老人ホームでボランティア活動をしたり、さまざまな方法で伝道することができる。ストリートパフォーマンスなどを使った路傍伝道、街頭での演説も可能だ。伝道が初めてという人にはトラクトの配布がお勧めだ。さまざまな場所やタイミングでトラクトを手渡したり、置いたりすることで伝道ができる。トラクトのサイズは、大きいものもよいが、QRコードが印刷された名刺サイズのものが受け入れられやすい場合もある。アナンド宣教師らが伝道時に配っている名刺型トラクトには、未信者向けに福音を説明するウェブサイト「iesusama.com」のアドレスとQRコードを印字している。しかし、さまざまな方法の中でも最も有効なのは自分自身の証しだといえる。
第9セッション「計画を立てて大胆に出ていく」
最後の第9セッションでは、伝道に実際に出ていくときに想定できること、覚悟すること、困難があってもそれらを乗り越える勇気について語っている。ピアノは、初めは簡単なメロディーしか弾けなくても、何度も繰り返し練習し、経験を積むことで複雑な曲も弾けるようになる。伝道もそれと同じで、実践する中で慣れていくものだ。伝道をするとき、特に初めの頃はミスをしたり、答えを思いつかなかったり失敗を繰り返すが、それも成長の機会と捉えて前進することができる。その上で、伝道に向かう際の恐れに打ち勝つ勇気を得るための7つの方法を紹介している。
第一に、自覚している罪を悔い改めることだ。良心の呵責(かしゃく)は恐れを生む。罪を手放せていないときは、福音を伝える勇気を感じられなくなるかもしれない。
第二は、日々聖書を読み祈る習慣によって、神と二人きりの時間をつくることだ。人への恐れを克服するには、本当に畏れなければならない存在である神に焦点を合わせる必要がある。
第三は、神と二人きりでいるとき、神がどのように自分のことを思っておられるか尋ねてみることだ。自分の天の父が神であり、自分が神の子であり、神が自分を遣わしたという自己認識が伝道への勇気を生む。
第四に、伝道に行く前に勇気を与えてくださいと祈ろう。使徒言行録4章では、大祭司らにイエスの名によって語ることを禁じられた弟子たちが、「大胆に御言葉を語ることができるようにしてください」と祈り、実際にそうしたことが記録されている。
第五に、信仰の一歩を踏みだそう。祈って勇気を感じなくても、一歩踏み出すときに勇気が与えられると信じて、まずは伝道に出てみることだ。福音伝道において、最初の一歩となるのは会話の糸口となる質問をすることだ。見知らぬ人に話し掛けるのは、確かに気まずさがあるが、気まずさを友として受け入れよう。
第六に、未信者の立場に立って考えてみよう。自分が永遠の苦痛を受けるとしたら、救いの道を知っている人に教えてほしいと思うはずだ。
第七に、自身も拒絶されたイエスが耐え忍ばれたことを覚えれば、自分も拒絶の苦痛に耐えることができる。
伝道は多くの拒絶や失敗を乗り越えて一人が救われるまで諦めず続ける過程であり、楽な仕事ではない。だから、一人よりもチームを組むほうがよいし、無計画にするよりも計画的にするほうがよい。「神は伝道の達人を求めておられるのではない。失敗を通してですら、神を礼拝する者を求めておられるのです」と述べてセミナーは終わる。
ビデオシリーズを見終わった教会やクリスチャンのグループのために、YWAMの東京支部では、オンラインによる質疑応答のセッションも用意している。「ミリオンライツ」伝道セミナーについて詳しくは、YWAM東京のウェブサイトを。