コロナ禍をはじめ、さまざまな危機が到来するこの時代に、聖書を読むことで新たな視座が開かれるよい機会になればと、日本聖書協会はアドベント(待降節)第1主日の11月28日、批評家・随筆家でカトリック信者でもある若松英輔氏を講師に招き、特別講演会をオンラインで開いた。500人の定員は事前の申し込みで満員に。国内だけでなく海外からの参加者もあった。
「愛とうめきと沈黙と」と題して講演した若松氏は、聖書の「うめき」という言葉に注目。「(旧約聖書の)詩編によれば、『すすり泣き』と『うめき』というのは、形を変えた祈り。祈ることすらできないような危機にあっても、神は私たちの傍らを離れることはない」と、聖書に描かれている神を説明した。
「私たちは自分の友を、歴史の中に見いだすことができる」。若松氏は、自分の苦しみを誰も分かってくれないと思うとき、聖書の中に自分の理解者を見いだすことができると話した。「詩編は、皆さんが最初に読む旧約の書物としては最適なのではないかと思う。千年以上前に書かれているのに、そこに私がいる。これは私そのものだと思う言葉が、詩編の中にはたくさんあるのではないか」
また、言葉にならない「うめき」が現代では軽んじられており、その働きをもう一度考え直してよいのではないかと語り、「私たちは、その言葉にならない『うめき』によってこそ、最も確かに神とつながることができる」と話した。
同じく旧約聖書では、預言者エゼキエルが妻を失う場面で「うめき」が出てくる。神はエゼキエルに民へのしるしとして「声を立てずに呻(うめ)け。死者のために喪に服するな」(エゼキエル24:17)と語り、エゼキエルは命じられた通りに行った。「うめくほかないとき、私たちは自分がいかに非力かを、いかに小さな者かを知ることになる」
新約聖書では、使徒パウロが「弱いときにこそ強い」(2コリント12:10)と語っている。「私たちがうめいているとき、神と共にあるように、私たちが弱いと心底感じるとき、神を近くに感じる」と若松氏。「この危機にあって、どう強くあろうか、あるいは自分だけは強くあらねばならないのだと思った方も少なくないと思う。だが、パウロは違うことを言う。パウロは、自分の弱さを誇ることにしたいと。なぜなら、弱さこそ、神とつながる一番確かな橋だから」と伝えた。
内村鑑三が「われ福音を恥とせず」と話したのも、「自分の弱さを誇る」ことの別表現だと若松氏は指摘した。「だから、弱さを恥としなくてよいわけです。パウロのように『私は自分の弱さを誇ることにします』、こんな言い方をしなくてもいい。私たちはせめて『私は弱くあることを恥としません』と語ってよいのではないか。あるいは、そういうふうに互いに語り合えるような環境ができていくことはとても大事なことなのではないか」と語った。
次に若松氏は、ドイツの神学者ディートリヒ・ボンへファーの言葉「教会が革新の時代を迎えたとき、おのずからそこに生じることは、われわれに対して聖書がさらに豊かになるということである」を引用。「聖書がこの2年の危機を経て、私たちにさらに豊かになっていれば、私たちの教会は革新の時代を迎えたと言っていい。しかし、もし私たちにとって聖書がかつてのままなのだとしたら、私たちはいまだ革新の時代を迎えていない」と話した。
「革新の時代」とは何か。「何か新しいことを始めることを意味しません。守るべきことを守り、真実がそこに明らかになることこそ革新。今までの決まりきった何かを受け入れるだけではなく、イエスご自身が私たちにとってありありと生まれ直す、イエスご自身が今この時代に生まれているかのごとく、生き生きと私たちによみがえってこなくてはならない」と、ボンへファーの真意を説明した。
ボンへファーは主著『キリストに従う』の中で、「安価な恵み」と「高価な恵み」を対比している。「安価な恵みとは、教説、原理、体系としての恵みのことである。一般的真理としての罪の赦(ゆる)しのことであり、キリスト教的な神概念としての神の愛のこと」とし、一方で「高価な恵みは、畑に隠された宝であって、そのためには人間は出掛けて行って自分の持ち物を全部喜んで売り払うのである」とする。若松氏は、「畑とは、私たちの人生そのもの。高貴な恵みは、私たちのこの人生という畑にすでに隠されている。安心して探せというのです。私たちにはすでに与えられていて、それを苦しみつつ、時に涙しつつ、うめきながらでも、自分の中にそれを見いだすことができる」と話した。
「やはり私たちにとってとても大きな恵みは、安心して苦しめということ」と若松氏は語った。「苦しみを通じてしか理解できないことはやはりある。あるいは、苦しみを通じてしかつながれない、自分以外の他者という存在もある。だから、私たちは苦しみを取り除かれることだけではなく、苦しみを生き抜くことをも神に祈ってよい。そして、その苦しみの中に、とても大きな宝が宿っていることも同時に理解していっていいのではないか。苦しみという与えられた試練の中にこそ、隠された宝がある」と話した。
若松氏はさらに、新約聖書のコリントの信徒への手紙一2章9節「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神はご自分を愛する者たちに準備された」を引用。「神は私たちに何も準備してくださっていないのではない。私たちのそれは目に見えず、耳に聞こえず、心にも思い浮かばないだけ。自分の人生なんかもう生きる意味がないと自分が思ったとしても、皆さんの人生に生きる意味がないかどうかは分かりません。神の目から見れば、人間のうめきこそ、至上の価値がある」と伝えた。
最後にスペインのカトリック司祭、十字架の聖ヨハネ(1542〜91)が、「神の英知に結び付けられるために、自分の知恵や賢さに頼ろうとする者は、神の御前において無知も甚だしい」「神の英知と結び付くに至るためには、『知』よりも、むしろ『不知』の道を通ってゆかなくてはならない」と語ったことを紹介。「不知」とは「知を超えていく」という意味だとし、「多く知る、幅広く知るということとは全然違う知の在り方、それは深く知ることであり、あるいは誰かとつながるという知の在り方であったり、神に包まれるという知の在り方であったりするのかもしれない」と語った。その上で、「こういうことは危機の時代にも言える。私たちは危機になると、どうしても頭を働かせる。頭で理解できることで自分の危機を生き抜こうとする。しかし、十字架の聖ヨハネはそうではない。知を超えたものによってこそ、私たちは危機を生き抜くことができる」と話した。