聖書には「肉にある者は神を喜ばせることができません」(ローマ8:8)と書かれています。神が私たちを喜ばせることはできても、私たちが神を喜ばせることはできるのでしょうか。私たちはクリスチャンであり、教会は、神を喜ばせることができる存在として選ばれましたが、私たちの愛の業や善行によって神を喜ばせられるでしょうか。あまりにも心許ないのではないでしょうか。その行動の動機は純粋でしょうか。神は私たちのすべてを見そなわし、知っておられるからです。
しかし神は、にもかかわらず、私たちの愛の行いを喜んでおられるのです。それ以前に、あなたの存在そのものが神の喜びなのです。そのあなたが神を愛し、神の御顔を慕って祈り賛美するときに、神は大いに喜んでおられるのです。そして、あなたが神にささげるささげ物を喜んで受け取られ、天に宝を蓄えてくださいます。
人があなたの善行を理解できなくても、神への純粋な動機で行われる業を神は記憶しておられます。そして、神に相まみえるときに「よくやった!」と言ってくださるでしょう。
あなたの持ち物を貧しく困っている人に分け与えるときに、神は心底喜んでおられます。福音伝道のために献身する人を、神はとても喜んでいます。私たちは、香油のつぼを割ってイエス様の頭に香油を注いだ女性が、福音を宣べ伝えるところで記念として語られ続けるように、あなたが神を愛し、犠牲を払って行うすべてが、神の目には同じように映っているのです。
神は偽善を悲しまれ、忌み嫌われます。しかし、あなたの純粋な神への愛を神は喜ばれます。神に喜んでいただけるような生き方をしていきたいですね。
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