聖書には「主は怒ること遅く」と書かれています。神様が気短で怒りっぽく、すみやかに裁きを下されるとしたら、誰一人滅ぼされない人はいないはずです。神は、一点の罪や汚れがないだけではなく、罪が何であるかさえ分からないお方です。
「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」(2コリント5:21)
しかし、同じように罪にまみれている人なら同じ穴のむじなで「人間はそんなもんだ!」と寛容になれるかといえば、そうではない場合があります。
人は簡単に自分のことを棚に上げて、人のことをとやかく言える存在です。その理由は、罪を犯し続けるということは、自分を欺くことだからです。必ず罪責感を感じているはずです。だから、人の過ちに対して厳しく接してしまうことがあるのです。
あるクリスチャンが、牧師の過ちに対してひどく責めつけました。その人は、表面的にはまじめな人に見えますが、牧師と同じような罪を犯しているどころか、もっとひどいことをしていました。
神は罪を知らない方であるからこそ、人を悪く見ることはありませんが、正義の故に、罪を見過ごしたり、大目に見たり、水に流すことはできないのです。神はその怒りを、一人イエス・キリストの十字架にぶつけました。イエス様を信じて、罪が赦(ゆる)された人に対しては和解ができましたが、悔い改めず、罪の赦しを受け取っていない人に対しては、神の怒りが向けられています。
「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」(エペソ2:3)
主は怒ることに遅いお方です。その忍耐を働かせて、イエス様を信じて、救われることを待っておられるのです。神の忍耐の故に救われたことを感謝して、救われていない人のためにとりなしをし、伝道をしていきましょう。
当たり前ではないのです。
「私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。神は言われます。『わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。』確かに、今は恵みの時、今は救いの日です」(2コリント6:1、2)
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