人はなぜ等しく尊いのか?
愛で正義で全知全能の神様が、神と人、人と人とが互いに愛し合うために、ご自身のかたちに似せてお創りになったからだ。クリスチャンとしてそれを信じるから、生まれてから今までしてきた良いこと悪いことの総和、財産、役に立ったかどうかに関係なく、尊いと断言できる。
イエス・キリストが良い人にも悪い人にも雨を降らせ恵みを施す神様の愛を教え、自らも生き様で実践し、最後には十字架で自分の命を与えてまで、神の愛の何たるかを見せてくださり、復活された。だからこそ、人はそこまでして愛する価値のある存在だと言える。どんな人でも、愛される価値がある。
家、財産、職、健康を失って困っている人も愛される価値がある。その人達の命はいらないと間違ったことを言う人も愛される価値がある。神様が皆等しくどんな人でも愛されていると信じるからだ。何か理由や条件をつけて、その人は愛される価値がないと言う資格は、少なくとも自分にはないと思う。
「ホームレスの命はどうでもいい」。視聴者約250万人の動画チャンネルを有するインフルエンサーの発言が優生思想だとして炎上した。さまざまな著名人、貧困者支援団体、マスメディア、ソーシャルメディアも批判一色になった。クリスチャンも批判していた。自分もこれは明らかに間違っている発言だと思った。だが「ノンクリスチャンの人たちがすでに発信した正論以外に、クリスチャンとして自分は何を発信できるだろうか、何を発信すべきだろうか」と考え、自分のツイッターに上記の投稿をした。
ノンクリスチャンでも「人は等しく尊い」と皆言う。少なくとも建前では。しかし、それは当たり前のこととされているようだ。人が等しく尊いと言える根拠まで語る人は自分の探した範囲では見つからなかった。根拠もなしに「何となく正しそうだから」では、人の行動が変容するのは難しいだろうと考えた。では、何を根拠にして「人は等しく尊い」といえるのだろうか。それを論じるにはまず、「人はなぜ存在するのか、人とはいかなる存在なのか」をはっきりさせないといけない。
聖書には、神が人を造ったこと、神が人を愛していること、神が人に神を愛するよう命じたこと、神が人に互いに愛するよう命じたことが書かれている。「人は、神と人、人と人とが互いに愛し合うために創造され、存在する」と教えている。では、「神とはいかなる存在か、愛とは何か」が分からなければならない。それにも聖書は明確な説明を与えている。神は愛である。神は正義である。神は全知全能である。神はそういう存在だ。正義は正しいということだ。全知全能とは、何でも知っていて何でもできるということだ。では、最後に残った「愛」とは何か。
神を見ることはできない。故に神の愛も目に見えるものではない。神の愛は無条件であり、永遠に続き、すべての人を等しく愛する愛だ。一方で、生まれてから死ぬまで、このようにすべての人を無条件に等しく愛し続けた人はいない。神は、そのように愛することを人の掟(おきて)として定めたが、その掟を守って神とすべての人を愛した人はいない。このことをキリスト教では罪と呼び、すべての人がこの「神の愛で愛さない罪」を負っていると教える。
しかし、この世界で歴史上、ただ一人だけ神の愛を見せてくれた存在がいる。それが、神の子イエス・キリストだ。神であるにもかかわらず、その地位を捨てることはできないとは考えないで、人となって、人に見える形で神の愛を教え、実践し、そして最後には十字架で自分の命と引き換えに、すべての人の罪に対する罰を引き受け、神の愛とはどういうものかを示してくださった。
だから、人は等しく尊い。しかし、人が等しく尊い根拠を言葉で示しても、口だけになっては意味がない。その意味するところを実践し、言行一致する姿を示してこそ、クリスチャンの発言には説得力が伴うのではないか。そう考えてしたのが以下の投稿だった。
人の命の価値の軽重の件、ああやって表にわかりやすい形で出てきたのなんて氷山の一角だろう。闇は大きい。では、クリスチャンにしかできないことは何か?
キリスト教保育・幼児教育・ミッション校・教会学校・教会・職場・趣味・家庭で、全ての人を等しく尊ぶ後ろ姿を見せ、光を灯すことじゃないか。条件で人の価値が上下する希望のない世の光は、無条件に人の価値を肯定する神の愛をそれぞれの置かれた場で実践する以外にはないと信じる。
そのためにも、まず自分が無条件に愛されていることを再確認し受け入れよう。過去現在未来の愛さない罪を赦されたイエス様の十字架の愛と、復活を胸に刻もう。すぐに愛せない赦せない人はいる。いてもいい。ただクリスチャンが違うのはそれでもその自分には受け入れがたい人をでも、神様は受け入れ愛していると知っていることじゃないか。それだけで実際に尊ぶ姿とはかけ離れていても、せめて方向だけは向く。それは周囲が察する。気づく。愛の火種の光だと。
別に伝道しようと思わなくても、神様がその人を連れてきて質問させることはあるかもしれない。「嫌がって当然なあの人をなぜ尊ぶのか」と。自分の抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていたい。闇の中の光。人を照らす希望の光。イエス・キリストについて。
人を動かすのは希望だと思う。希望の中の希望こそ、イエス・キリストであり、クリスチャンはその言葉と行いを通してイエス・キリストを指し示す役割を世に負うのだと信じる。
そして最後に、世の中が寄ってたかって一人の過ちを叩(たた)く姿、それに自分を含め、クリスチャンも少なからず便乗する誘惑に駆られるのではないか、という危惧を感じ、次のような投稿をした。
こんな時だからこそ立ち返りたい聖句。
まことに神こそは審判者である。詩篇50:6
人を裁くな。マタイ7:7
罪を犯したことのない者が石を投げなさい。ヨハネ8:7
明らかに間違っている誰かがいるとき。引きずり出し晒(さら)し上げ罰したいとき。裁く言葉を押し留め、愛の模範を示したイエス様に倣いたい。叩きやすい現行犯に裁きの石を叩きつけても、神と人を無条件に愛する人にはならないし、神と人、人と人が互いに愛しあう世界も来ない。
叩かずにはいられなくなるほど、その現行犯の罪が自分の心の中の罪を可視化したのではないか?向き合うことを恐れるからこそ違うことを示そうと裁くのではないか?
結局のところ、神様から見たら、その分かりやすく罪を犯した人も、自分も、無条件に神と全ての人を愛してはいないという点では、同じなのだ。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして神様を愛しているか?自分と同じように隣人を愛しているか?最も大切な戒めを破った罪人は誰か?
まさに自分だ。
あの人のように罪を犯す者ではないことを感謝しますと祈る姿はないのか?こんなにも愛さない罪人の自分を哀れんでくださいと胸を叩く姿はあるのか?必要なのは自分の罪から目を背けるために他人の罪に憤ることではなく、自分の罪を直視して感じる悲しみなのだ。悲しむ者は慰められるのだから。
これらの投稿を、ツイッターのまとめサイトを使って1ページで読めるようにしたところ、もともとはクリスチャンに向けたものだったが、ノンクリスチャンの人たちからも数十件のコメントをいただき、対話と証しの機会を得ることになった。
人はなぜ等しく尊いのか――。自分ならどう答えることができるだろうか。この機会に考えてみてはどうだろうか。