「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です」(マタイ7:12)
ある私立の学校では、毎年入学希望者数が激減し、今年はとうとう定員割れとなりました。このままでは、学校は閉鎖です。そこで校長は責任者を呼んで言いました。「来年度も同じ状況ならキミはクビだ!」
しばらくたって、その責任者が校長に報告に来ました。「校長、喜んでください。来年度の入学希望者は倍増です」と言ってリストを見せました。校長は興奮して聞きました。「キミ、すごいじゃないか! 一体どうやってこんなにたくさんの学生を集めたんだ!?」
すると責任者は得意そうに答えました。「簡単でした。今の校長は今年限りでお辞めになりますと発表しただけです」
この校長は、自分の目標を達成するための最大の障害が自分自身であることに気付いていなかったのです。
自分の本当の姿が見えないために、いつもトラブルに巻き込まれる人がいます。本人は、その原因が自分にあることに気付いていません。これは悲劇です。そんな人間にならないために、どうすればよいのでしょうか。感受性を磨くことです。そのヒントは聖書に満載です。
「高ぶりが来れば辱めも来る。知恵はへりくだる者とともにある」(箴言11:2)
英国の推理小説作家チェスタートンの作品『ブラウン神父』の中で、探偵として活躍するブラウン神父の、見事な殺人事件の解決ぶりに驚嘆した米国人の旅行者チェス氏がその秘訣を尋ねる場面があります。その時、ブラウン神父は事件解決の秘訣を次のように語っています。
「犯人が犯行にあたって、綿密な計画をめぐらし、どういう精神状態になればああしたことが実際にできるものなのかを考えぬいて、私の心が犯人の心と同じになったとき、その事件の全貌が分かるのだ」と。彼は「殺人犯の心情を全く実感できるまでに、犯人の心と同一になるのだ」と言います。「自分が実際に殺人犯の考える通りに考え、殺人犯と同じ激情と格闘し、こみ上げてくる憎悪に猛り、半ば狂った頭が目をくるめかせるのを覚えるほど、殺人犯の心になりきるのだ」と説明します。
さらに「犯行に及ぶ時間の殺人犯の精神状態を心に描いてみると、私はいつもそれが他人だとは思えなかった。だからそのようなけしからぬ犯罪者を自分自身の裡(うち)に見つけて、ひっ捕らえ、それが暴かれないように、いつも一緒に暮らしても大丈夫なよう自分の手に握っていなければならない」とつけ加えます。
この「自分自身のうちにあるもの」をしっかりと見つめ、それを「自分のもの」として受容する、という訓練を日々の営みの中で繰り返すことで、人に対する感受性も磨かれていくのです。その結果、自分の周りにあるさまざまなことに「気付く」ようになります。
ある時、カルチャーセンターでの講義を終えて、事務局の女性に1万円札をくずしてほしいと頼んだとき、その女性はお盆に載せてお金を持ってきてくれました。しかも千円札が9枚と封筒が1枚載せてありました。あと千円足りないと思い、封筒を振ってみると硬貨が入っています。500円玉や100円玉、10円玉で合計千円入っていました。
この女性は、私が帰りにタクシーに乗るかもしれないし、自動販売機でジュースの1本も買うかもしれないと思って、紙幣と共に幾種類かの硬貨にくずしてくれたのです。私はうれしくなり、上司の方に「素晴らしい指導をなさっていますね」と言うと、お盆に載せてお渡ししなさいとは指導しているが、一部を細かくした方がいいなどは一度も教えたことはない、ということでした。これを聞いて、余計に彼女の心遣いがうれしくなりました。感受性が磨かれてくると、相手の立場に立ってしっかりと物を見たり、考えたりできるようになるのです。
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