神戸改革派神学校で「契約神学」を学び、京都福音自由教会の牧師となって、KGKとタイアップして学生伝道をしているとき、奇跡的な「癒やし」や「異言」「預言」は、聖書が完成する以前には聖書に書いてある通りあったが、聖書が完成してからは、聖書の神の御言葉を確信付けてくださるために静かにお働きくださるだけだと教えていた。この神学は現代人キリスト者に平安を与えた。「なるほど、教会で誰も異言で祈らないのはそのためか」と納得したのである。
その頃、有名な本田弘慈先生が神戸中央教会で「伝道セミナー」を開いてくださっていた。私はよくそれに参加して伝道を学んでいたが、ある時、フィリピンの有名な伝道者テングソンをゲストスピーカーとして招いていたが、彼は火の出るような説教をした。「皆さん、アジアのジャングル地帯など困難な地で伝道しているのは、みんな白人宣教師です。日本から出て行く人はいないんですか!」という訴えで、私は立ち上がったのである。
こうして私は、インドネシア宣教交友会(YPPII)という超教派団体で奉仕する宣教師となった。この団体は神学校もあり、200人以上の神学生がいて、私はその教授となったのだが、毎年「伝道月間」が3カ月もあり、インドネシア各地に伝道を助けに出掛けるのである。私は初めて神学生4人を連れて、ある島の無牧教会の奉仕に行ったが、朝起きたら私の宿舎の前に人が行列をつくって並んでいるではないか! 神学生によると、皆病人たちで、牧師である私に祈ってほしいので朝から並んでいるという。驚いた私はその神学生に、「私は病人の癒やしの集会などやったことがないから、君がやってくれ」と言ったら、「とんでもない。先生が牧師だから並んでいるのですよ。牧師でない私にできるわけありません」と。後で分かったが、インドネシアの人々は「牧師には特別な霊的賜物がある」と信じているのである。そこで、「日本人牧師がこの島の無牧の教会に来る!」といううわさが広まり、病人たちが集ってきたわけである。
もう逃れる道はない。聖書通り「主の御名によって祈ろう」と決め、一人一人のために「主イエスの御名によって」癒やしのために祈ると、癒やしが次々に起きたではないか! 驚いたのは私で、どうして癒やしが起きたかよく分からない。しかし、それから病人のために祈るようになったのである。
さらにすごいのは有名な「ティモールのリバイバル」である。インドネシアの東の果てにティモールという島があり、病人の癒やしだけでなく、死者さえもよみがえったとされている。
この「ティモールのリバイバル」は世界的に知られるようになり、ティモール島に行き、その恵みにあずかりたい、体験したいという熱心な牧師、信徒が世界中からティモール島を訪問した。
私がジャカルタで奉仕していたとき、ミャンマーの大学で教えながら山地人伝道に励んでいたドイツ人宣教師のヤン氏と出会った。「ティモールのリバイバルをこの目で見たい」という熱心な主の器である。2週間ほどしてヤン氏がティモールから帰ってきた。すると「ティモールで大変な目に遭った。大恥かいた。しかし行って本当に良かった」と言う。「どうしたの?」と聞くと、20人ぐらいの伝道チームと一緒に祈ったとき、突然祈りのグループの一人が「ヤン兄弟、偶像を処分しなさい」と言うのである。驚いたヤン氏は「何を言っているんだ。私はドイツ人クリスチャンだよ。偶像なんか持ってないよ」と言ったが、「いや持っています。その偶像を処分しなさい」と、譲らない。そこでヤン氏が、「本当に私は偶像なんか持っていないよ。では、どんな偶像なのか、具体的に言ってくれよ」と言うと、「もう一度祈りましょう」と輪になって祈り、その兄弟が言った。「それはトラの頭蓋骨です」。その時、ヤン氏はハッと気付いた。ヤン氏は、ミャンマーのある山地族伝道に行ったとき、その山地族の村全体が偶像礼拝をやめ、主イエス様を救い主として受け入れるクリスチャンの村となり、大勝利を体験したことがあった。その時、その村の人々が拝んでいた偶像のトラの頭蓋骨を捨ててもいいのだが、記念としてもらってドイツに送ったのだった。そのことを思い出し、ヤン氏はすぐ処分するように連絡した。「私はみんなの前で言われて大恥をかいたが、ティモールに行ってよかったですよ」
ヤン氏が体験したような聖霊様の圧倒的お働きは、インドネシアのみならず世界各地で起きているが、契約神学では、なぜ「昔はあったが、今はない」と言うのか。その聖書的根拠の一つは、使徒の働き2章16~21節の解釈である。五旬節(ペンテコステ)の日に集会をしていたとき、突然、激しい風が吹いて来るような聖霊降臨があり、集っていた信徒たちがいろいろな国の言葉で話し出すという奇跡が起き、人々は驚いた(使徒2:2、3)。
そこで人々が「これはいったい何事か」と言うので、ペテロは立ち上がって説明した。「この人たちは酒に酔っているのではありません。預言者ヨエルが語ったことの成就です」と(使徒2:16)。そこで契約神学では、ペテロが旧約聖書のヨエル書の成就と語っているのだから、成就したので「聖霊がお降りになる」ということは二度とない、と解釈するのである。聖霊降臨の預言はここで成就したので、劇的な聖霊のお働きは二度とないと解釈する。
しかし、ペテロのヨエル書の引用文をよく読むと分かるが、そのヨエル書の引用文の全部が、ここで成就したのではない。半分だけである。後の半分はまだである。つまり2章19、20節の「天変地異」は、まだ起きていないのである。
そこでズバリ、ヨエル書そのものを読むと、次のようにある。
シオンの子らよ。
あなたがたの神、主にあって、楽しみ喜べ。
主は、あなたがたを義とするために、
初めの雨を賜わり、大雨を降らせ、
前のように、初めの雨と後の雨とを
降らせてくださるからだ。
(ヨエル2:23)
雨は二度降るのである。「初めの雨」と「後の雨」がある。
パレスチナの気候は乾季と雨季に分かれており、半年の乾季で土がカラカラに乾く。そして10月ごろ、雨季になり、「初めの雨」が滝のように激しく降り、固い土をたたく。そして麦が植えられるようになる。その後はあまり激しく降らない。しかし、翌年の3月になると、再び激しい「後の雨」が降る。これによって麦がしっかり実を結び「刈り取り」となって大収穫となるわけである。「雨は二度降る」のである。
今は、まさに「後の雨」の時ではないか。この時、われわれは何をすべきか、答えは明らかである。
「後の雨の時に、主に雨を求めよ」(ゼカリヤ10:1)
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