新型コロナウイルスの影響で、米国の映画館が完全に閉鎖されるという異常な時期を経験した2020年。それでもしぶとく世界最高峰の映画の祭典「アカデミー賞」は開催される。今年で93回目となるこの「お祭り」は、毎年拮抗(きっこう)する2作が人々の話題となる。ご多分に漏れず、今年も「当確間近」といわれている2作が、他の作品群から頭一つ分ほど抜きんで始めている。そしてそのどちらもが、よくよく考えてみると「米国」という人類史上まれに見る「未完成な実験国家」の本質を色濃く反映させているのである。今回は、現在日本でも公開中であり、どちらかが映画史に名を刻むことを約束された(と評論家から目されている)「ミナリ」と「ノマドランド」の2作を取り上げ、これらをキリスト教的観点からひもといてみたい。
「ミナリ」(リー・アイザック・チョン監督、配給:ギャガ)
1980年代、韓国人のジェイコブ(スティーブン・ユァン)は、農業で一旗揚げたいという願いを持って米国へやって来る。行きついた先は、アーカンソー州というド田舎。広大な荒地とおんぼろのトレーラーハウスしかないジェイコブ一家は、苦しい家計をアルバイトで賄いながらも、着実に農地を耕し、そこで生活する基盤を築き始める。紆余曲折を経て、ある程度の収穫を得られるようになった一家だったが、彼らを予想だにしない困難が襲うことになる――。
本作は、米国資本で韓国系米国人の手によって製作されたにもかかわらず、ゴールデングローブ賞では作品賞にノミネートされることはなかった。理由は劇中で用いられている言語の半分以上が韓国語だったからである。つまり一部の米国人から見るなら、これは「韓国映画」だったのである。その時点で本作は従来の米国映画の埒外(らちがい)、すなわち「アウトサイダー」と見なされていた。昨年のアカデミー賞作品賞をポン・ジュノ監督の「パラサイト 半地下の家族」が取ったことは記憶に新しいが、「今年も韓国映画の躍進が・・・」という論調も、米国から生まれたものであろう。
しかしよく考えてみると、これは「移民」の物語である。そして米国は欧州の封建的な社会体制と宗教的弾圧を逃れて大西洋を渡った「移民」たちによって建国された国家である。その底流にあるのは、「アウトサイダー」としてのアイデンティティーであり、それをマジョリティーへと転換させた原動力に「信仰(神が導かれたのだという思想)」が存在していたのである。そして本作「ミナリ」でも、ジェイコブ一家は教会に通っている。おそらくメインライン系の教会であろう。彼らは白人社会で「アウトサイダー」である。そして仲良くなる一風変わったキリスト教徒ポールが出てくる。彼は既存の教会に通わず、毎日曜日に独自で礼拝(十字架を担いで歩き回ること)をしている。ジェイコブはポールと仲良くなる。そして言動を見るに、ポールは間違いなくペンテコステ系の信仰者である(私がそうだから、痛いほど分かる)。彼もまたキリスト教界からは「アウトサイダー」なのである。
本作は、「アウトサイダー」として生きざるを得なかった市井の人々を丹念に描きながら、いつしかマジョリティーとなってしまった米国人(特にWASP)の心の琴線に触れるという見事な職人芸をやってのけたといえよう。リー・アイザック・チョン監督の自伝性が強く出ている作品であり、タイトルの「ミナリ」とは、野菜のセリのことであり、「たくましく地に根を張り、2度目の旬が最もおいしいことから、子ども世代の幸せのために、親の世代が懸命に生きるという意味が込められている」と公式サイトには掲載されている。見事なメタファーといえよう。
そしてキリスト教的に見るなら、聖書で「これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました」(ヘブル11:13)と語られている。これは流浪の民となったイスラエルがやがてカナンの地に入り、そして国家を築き、イエス・キリストの到来を迎えたことを意味している。同じリアリティーが本作の韓国系移民たちには感じられるだろう。父親世代の労苦によって、次世代以降の「米国人」がその恩恵にあずかり、その歴史をさらに次世代に語り継いでいくことができたのだから。
昨年の「パラサイト」に次いでアカデミー賞作品賞を取ることができるかどうかは分からないが、米国人のDNAに組み込まれている「移民性」に響く作品であることは間違いない。
次回は「ノマドランド」について評してみたい。
■ 映画「ミナリ」予告編
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