夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。(詩篇30:5)
毎朝、さわやかにお目覚めでいらっしゃいますか?
聖書は、朝の恵みを繰り返し語っています。
私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は力強い」(哀歌3:22‐23)
「それは朝ごとに新しい」何とさわやかなことばでしょうか。1年365日、同じような出来事の繰り返しの中にも、神を信じる者は、朝ごとに新しい恵みと力を経験するのです。毎日、「今日という日ほど、すばらしい日はない!」と告白できるのです。
「今日、生きている」それは驚きです。感激です。今日というキャンパスに、すばらしい充実と潤いの絵を描くこともできれば、灰色に、墨色に、虚しく塗りつぶすこともできるのです。朝ごとにめぐり来る新しい日を、心から喜びと感激をもって、迎えておられますか?
夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。(詩篇30:5)
有名な朝のみことばです。別の訳(口語訳)では、
夜はよもすがら泣きかなしんでも、朝と共に喜びが来る。
眠れぬ夜、仕事のことで頭がいっぱいで徹夜する夜、寝返りすらうてない苦しみの夜・・・もあるでしょう。しかし、聖書は語っています。「夜はよもすがら泣きかなしんでも、朝と共に喜びが来る」と。
もちろんこれは、自然の夜明けの意味だけではありません。明日が来れば、何とかなるという意味でもありません。主の恵みが大きいがゆえに、愛なる神が私を愛し、朝ごとに新しい力を与えてくださるのです。実際、感激なことは、夜の闇は必ず明るい朝に変わることです。そして、夜明け前には一段と暗さが増しますが、それは太陽のかがやきが近いしるしなのです。
もう34年ほど前になります。私は愛する一人の高校生の信徒を、水の事故で失う悲しい経験をしました。一晩中、池を捜し回りました。もしかしたら泳ぎ疲れて、山の中に寝そべっているのではないかと、近くの藪の中も至る所探し、大声で名前を呼びました。しかし返ってくるのは虚しいこだまだけ。手がかりは何もありません。朝の4時ごろ、暗闇はいっそう暗くなったように感じましたが、やがて東の空があかね色に染まり、太陽が輝き始めました。しかし、私の心の闇は暗くなるばかりでした。やがて悲しい水死体が引き上げられました。
葬式の夜、私は深い悲しみの中を帰路に着きました。慰めを語らねばならない牧師が打ちひしがれ、涙にくれて、気力もなくしてしまったのです。一人ぽとぽとと涙を流し、歩きました。ふと空を見上げると、満点の星です。その時、いつも彼とともに日曜学校で歌った賛美が口をついて出てきたのです。
まのなくかなたの流れのそばで
楽しく会いましょう。
神様のそばのきれいな川で
みんなで集まる日の ああなつかしや (聖歌687番)
私はその時、「彼は死んだのではない。今、神とともにあるのだ。私は彼を引き戻すことはできないが、彼に会うことはできるのだ」という強い核心が与えられたのです。以来私は、人は死んでも、イエス・キリストを信じる者は「天国に生きる」と堅く確信しています。そして、少しも疑うことなく、天国の実在を信じています。
悲しみの夜は、イエス・キリストにあって、喜びの朝に変わります。イエス・キリストは、今朝もあなたに新しい人生を、永遠の命と天国の希望を与えてくださいます。どうかこのすばらしい主イエス・キリストを心にお迎えになり、日々神の愛の中にお過ごしください。
(C)マルコーシュ・パブリケーション
榮義之(さかえ・よしゆき)
1941年鹿児島県西之表市(種子島)生まれ。生駒聖書学院院長。現在、35年以上続いている朝日放送のラジオ番組「希望の声」(1008khz、毎週水曜日朝4:35放送)、8つの教会の主任牧師、アフリカ・ケニアでの孤児支援など幅広い宣教活動を展開している。
このコラムで紹介する著書『希望の声』(マルコーシュ・パブリケーション)は、同師がラジオ番組「希望の声」で伝えたメッセージをまとめた珠玉のメッセージ集。放送開始25年を迎えた98年に、過去25年間伝え続けたメッセージの中から厳選した38編を紹介している。