本作は、2019年に製作されたポーランド映画である。第92回米アカデミー賞国際長編映画賞にノミネートされ、一躍注目を集めた。ワルシャワで行われたポーランドのアカデミー賞とされる「2020 ORL Eagle Awards」では、監督賞、作品賞、脚本賞、編集賞、撮影賞ほか11部門を受賞している。
物語は、よくある「なりすましモノ」である。少年院に入れられているダニエルは、院内でミサを取り仕切る司祭に憧れ、カトリック信仰に傾倒しつつあった。そんな彼に転機が訪れる。仮出所して、社会に出ることが許されたのである。少年院を出るとき、ダニエルは司祭にこう尋ねる。「神の元で働きたい。資格があれば」と。しかし司祭はこう告げる。「前科者は、聖職者に就けない」と。
ほどなくしてダニエルは、院内で使用していた司祭服をうまく利用して、静かな村の司祭代理の職にありつく。もちろん彼はカトリックの司祭教育など受けておらず、すべて院内で見聞きしたことを見よう見まねで繰り返しているにすぎない。しかしその様が、村人たちの「生」を呼び覚ましていくことになる。
現代にも通じることだが、つまらない形式的な説教を聞き飽きた会衆は、大胆だが自らの体験や葛藤を赤裸々に語るダニエル(トマシュ神父と名乗る)の行状に刺激を受け始める。そして皮肉なことに、偽物の司祭によって今までの停滞ムードが一掃され、活況な雰囲気に変えられていくのだった。
だが、ダニエルに破滅の危機が訪れる。その村一番の権力者である町長が経営する製材所へ祝福を祈りに行ったとき、かつての少年院仲間がそこで働いているという事実を知ってしまったからである。当然、相手と顔を合わせれば、自分がしていることがバレてしまう。そんな葛藤を抱えながらも、ダニエルにはどうしてもしなければならないことがあった。
それは、その村でかつて起こった悲惨な交通事故をめぐる遺族たちの対立であった。その村では、6人の若者を乗せた車と、1人の偏屈な男性が乗った車が正面衝突し、全員が亡くなるという悲惨な事故があった。息子や娘を失った遺族たちは、男性の妻を村八分にし、男性の遺骨を村の墓地に埋葬させまいと反対運動を展開していたのである。しかしダニエルは、若者たちが酒を飲み、乱暴な運転をしていたのではないか、ということを示す証拠を見聞きしてしまう。そのため彼はこの問題を「司祭として」解決し、男性の遺体を村の墓地に納めるという「正しい結果」を生み出そうと躍起になる。だが彼が真剣にこの問題に取り組めば取り組むほど、敬虔で信仰深い村人たちの暗部があぶり出されてくるのだった。そしてついに、取り返しのつかない悲劇が起こってしまう。それはダニエルの行く末をも左右する大きな事件となっていくのだった――。
前述したように、この手の「なりすましモノ」映画は、よくハリウッドで量産されている。さまざまな事情から、本来はまったく縁のない聖職者や政治家になりすまし、その中で生きるノウハウを学んだ主人公が、今までの既知体験をもとに、硬直化した世界に新鮮な風を吹き込む、という話である。例えば、「天使にラブ・ソングを」「奇跡を呼ぶ男」「俺たちは天使じゃない」「デーヴ」などだ。しかし、いずれもコメディーである。米国ならではの気質か、こういった「なりすまし」行為がいつかバレて、主人公はそのツケを払わされるのだが、懲罰的な意味合いは薄く作られている。むしろ新しい風を吹き込んだインフルエンサー的功績が称えられるようなラストを迎えている。
だが、本作はまったく系統が異なる。むしろ真摯(しんし)に、「なりすまし」から生まれる悲喜こもごもを描いている。そして間接的にカトリック教会を批判する働きをも担っている。偽物がここまで人々に受け入れられるのはなぜか。それは本物たちの行状に、人々との乖離(かいり)があるのではないかと。
例えば、制度上であれ、事実上であれ、「前科者は、聖職者に就けない」という件。これはキリスト教の救済教理から見ていかがなものだろうか。「罪の自覚を持った者が、その罪の大きさ故に担いきれず、キリストにすがる」ことで、救いが成立する。もちろんカトリック教会では、プロテスタント教会のように「信じればよい」と単純化できないことも分かる。しかし新教旧教の違いはあれど、キリストの十字架に対する真の意味を見いだすという点において、以下の言葉を否定するキリスト教信者はいないだろう。
だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。(コリント二5:17~19)
また、通り一遍の神学用語で説教を語る件。これも、断片的に聞きかじった情報をつぎはぎしてではあるが、自分の言葉で語り掛けようとしたダニエルのスタイルは、多くの人々の心を打つことになった。この場面は、同じ説教者として大いに学ばされた点である。
そして本作最大のポイントは、主人公の結末である。ここはぜひ劇場で、ご自分の目で確かめてもらいたい。この視点は、ハリウッド映画にはない。ヨーロッパ的なキリスト教のリアリズムであろう。観終わって思い出したのは、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」と「裁かれるは善人のみ」である。類似作としてこれらを挙げるだけで分かるだろう。
本作は、実在の司祭なりすまし事件をモチーフにして製作されている。しかし製作者側のメッセージは、観客の出自、文化、経験によって、いかようにも変化させられる。その変化が面白いといえよう。確かに気分がよくなる映画ではない。だが、クリスチャンならきっと観終わって深く考えさせられる一作だろう。
■ 映画「聖なる犯罪者」予告編
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