マタイの福音書22章には、イエス様が語られた「婚宴のたとえ話」が書かれています。その後半で、当初、王が王子の婚宴に招いていた人はそれにふさわしくなかったので、町の大通りに出て行って、良い人も悪い人も婚宴に招きました。
町の大通りで招かれたのが私たちです。当時、婚宴には一番の晴れ着を着る習慣があり、花婿の父は礼服を持っていない人のために衣服を準備しました。しかし、衣服を準備したにもかかわらず、こともあろうに、礼服を着ないで婚宴に私服で参加した人がいました。
王は、理由を問いただしますが黙っている人に向かって怒り、側近に命じました。「そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ』と言った」(マタイの福音書22章13節)とあります。
ここで、王が準備した礼服とは、「イエス様」のことです。イエス様を信じ、イエス様に頼るなら、誰でも神の前に大胆に進み出ることができます。しかし、礼服を着なかった人は、自分に自信があったのでしょう。「イエス様を信じる必要はない。私には罪がない!」という態度を取るようなものです。
聖書は、「罪の支払う報酬は死である」と語ります。しかし、「神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」(ローマ人への手紙6章23節)とあります。
婚宴に礼服を着て参加すると「馬子にも衣装」と言われるように、どんなみすぼらしい人でも立派に見えるように、イエス様を信じるなら、神の目にはイエス様を見るように完全な人と見てくださいます。
神が用意された人となった神イエス様をないがしろにすることなく、イエス様を主と認め、第一にし、頼り、共に歩んでいきましょう。
ステキな一日でありますように。
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