説教について
説教は聖書の御言葉を今日の状況に適応させるものである。聖書の本文を選んでおきながらそれは放置して、別の話をするのは説教とは言えない。その礼拝のために選んだ章節が、礼拝の参加者に何を語り掛けているか、それが明白に出ていなければならない。
ところが、聖書のテキストを離れる説教が多いのである。勉強不足でそうなったのでなく、説教とはそういうものだ、という思考があるらしい。真面目な説教者がよく勉強して話しているとき、その実は選んだ章や節に関連する「組織神学の該当部分」を説明しているにすぎないことがある。つまり十字架の場面を選んだ日には、「福音書のその章句の意味の握り下げ」でなく、実は贖罪論を易しくして話しているのである。
また福音書の十字架の場面を話しているのに、実はパウロ書簡の関連章句の説教にすり変わってしまっていることがある。 同様に、使徒の働きのテキストから話しているのだが、その内容は「パウロ書簡の教理的な該当部分」を話している説教も多い。
これは、日本人牧師の責任ではない。だいたい「使徒の働き」の注解書に、その傾向が強い。世界的な学者のものにも、そういうのが多い。ちょうどインターネットのハイパーテキストのように、使徒行伝の文言からすぐロマやガラテヤの関連章句の注解に飛ぶのである。日本語のものでも、英語の注解書でもほとんどがそのようである。
米国で、使徒の働きの章句を選んで修論を書いたときのことである。図書館で、使徒の働きの注解書を見ていた。ロマ、ガラテヤなどの注解は書棚にそれぞれ何段ずつかある。ところが使徒の働きは、一段しかないのである。しかもそのほとんどが「関連パウロ章句解説」式のものだったことを見て、今更のように驚いた記憶がある。使徒の働きは、現在の日本の伝道にとって大切な指針である。この素晴らしい書が今日の我々に何を語っているのか、それをストレートに受け止めねばならないという、その思いを強くした。
福音書のたとえ話の説教でもそうであって、その話に関連する「教理」を語ることにエネルギーが行ってしまう傾向がある。旧約の出来事の説教は、もうそういう傾向に満ちている。ロマ書やガラテヤ書に飛ぶだけならまだよいが、関連する教理を話し、関連する組識神学的な問題を易しくして解説しているような説教になりやすい。これをやっていると、説教が「授業」になり、つまらなくなる。
実は組織神学で扱う主題は、外国の関心事や西欧で過去に提起された問題の解答の形のものが多く、日本人にとっては何の興味もないことを長々と論じていることが多い。例えば理神論などは、250年前の欧州ではクリスチャンにとって大問題だったかもしれぬが、現在の日本人にはトンとその問題意識がない。礼拝に集まる聴衆は皆、ナマの問題を抱えているのであり、その解答が欲しいのである。分からない授業を我慢するのは学校だけでいい。
説教が神の御心や神の計画についての教理的な話ばかりでいいのか。もしそうなら旧約聖書も福音書もいらなくなり、ロマ書だけでいいことになるではないか。
実は筆者も若い頃はロマ書ばかり話していたことがある。これではいけないと思って、福音書から話しても、どうも力が入らなかったのだった。同罪である。なぜ教理部分の他に旧約や福音書、たとえ話があるのだろうかなどと考えたことがあった。正直に告白すると、その頃は、ロマ書さえあればいいではないか、何で聖書にはゴタゴタした歴史があるのだろう、などと思うこともあった。
実は、旧約や福音書には、神の恵みを聞いたときの人間の戸惑い、つまずき、不安などが表現されている。また同時に、神の恵みをまっすぐに受けたときの喜び、また成長、成長の痛み、共感なども記録されている。それらを礼拝において共に学べば、語る者、聞く者は共に追体験して、その中に聖霊様の働きを頂き、言い知れぬ力と祝福を頂くのである。いわば時代を超えて、そのとき主イエスの前に一同が連れ出され、主イエスの愛の眼差しを受けるのである。
ダビデ少年がゴリアテを倒したところの話は、大人にとってもまったく同じで、自分の人生も小さいが、手元の小さい石一つで社会を変えるような仕事ができることを予感し、力を頂く。それは、聖霊様のお仕事である。人間である説教者が心配しなくていいのである。
だいたい説教とは、主イエスを紹介するのである。ところが力を込めて長々と紹介をするだけで終わり、ご本人(イエス様)が説教の中に出てこないことがある。紹介というものは、その次に本人が出てくるはずであるが、それを忘れがちである。紹介は、最後に本人が出てこなければ意味がない。ところが、最後まで教理の説明で終わる。
ついにイエスご自身は出ていただけない、主にお会いできないままで、主の臨在を頂かないで終わる。説教者は一生懸命に説明するが、説教とは主イエスのご臨在を頂くことである。そういう理念がないようで、あまりそのことは祈り求めていないのではないか、そう思ってしまう説教が時にある。
聖書には神の御心とご計画だけが書いてあるのか、そうではない。御心を示されて、その前で当惑する人間、受け入れて喜ぶ人間の姿、こけつ転びつ主イエスに従う人間の姿なども書いてある。それを、そのまま伝えるのである。
自己観照
先に日本人にとって礼拝とは、個人としての自分を知り、自分の価値を確認するところである、と言った。であるから、礼拝の中にはイエス信仰によって自分の再発見をする、新しい自分を発見する、そういう機会も設けるべきだろう。イエスによって本当の自分を把握し、真の自分はイエス・キリストにある自分であること、それ以外の自分はニセモノであることを発見する。こうして職場で見失っている自分を礼拝において発見するのである。
そうすると教会は、日本人が希求してやまない所になる。教会は、真の意味で福音的な「孤独」を与える場所である。だから礼拝のプログラムの中に、「黙想」か「瞑想」の時間を設けて、「自己観照」の機会があるようにすることがよいかもしれない。
そういうふうに考えてくると、第一そもそも「説教」という名前がいけない。「教」会で「先生」が「教える」と思うから、組織神学の講義になる。「教会」と「先生」と「説教」の3つはすべからく追放すべし。そうでない、「主の家」で「〇〇さん」から「福音のお話」を聞くのだ。
メッセージという名称を使う教会もあるが、「説教」を嫌ってのことだろう。ただカタカナはあまり使わないほうがいいかもしれない。カタカナが多いと、定義されないまま、意味を把握しないままで、気分や感覚で使ってしまうことが多い。メッセージは、もともとは王や領主からの通達のことであり、下々は、これを無視するとヤバいことになる。だから意味はぴったり合致するのだが、これは礼拝の中心だから外国語でないほうがいいように思う。でも「説教」よりはいいかもしれない。
仏教や新興宗教の「法話」は、説教よりは良い、分かりやすい話であるように努力しているという気持ちが出ている。「教話」とする手もある。まあしばらくは「お話」でいいだろう。「聖書講解」はいいが、どうもカタい。「みことばのときあかし」は非常に良いが、長すぎるし、ちょっとキザな感じもする。難しいものである。ただ「説教」だけは、絶対にいけない。
また日本人は、一人で「お参り」に来るという形のほうが抵抗が少ないとすれば、ビデオのシリーズで「イエスのたとえ」や「イエスの奇跡」のように、短い教話を作って用意する。もしスペースがあれば、ビデオ・コーナを作っておく。誰でも自由に来て一人で見る。貸し出しもする。
伝道したい人には、近所なら自分はビデオを見るから行こう、と言って連れて来られる。一本は、20分くらいがいい。長いのは、現代人は耐えられない。標準的なコースを作っておいて、それに従ってこれら20分テープを2、30本見ると簡単な口頭試問をして、終了証を出すのでもいいだろう。これは、日本人の勉強好きな性質を利用するのである。その場合、対人関係シリーズのようなものを作って、未信者向きのコースとしてもよい。箴言にあるような福音的処世術、福音的気配り術講座である。
使徒の働きを見ると「復活の証し」が中心であり、使徒たちは力強く主の復活を証しした・・・とある。福音的信仰は、イエス・キリストの復活信仰が中心である。使徒の働きは、第13章に至るまでは身代わりの救いのメッセージは出てこないので、それまでは、すべて復活の証しである。よみがえりの主を信じよう、この方が救ってくださる、この方が人生に力を与えてくださるという「お知らせ」である。これが、現今の教会に欠けているのではないか。
ロマ書にも、「イエスの死と復活による救い」と教えられている。つまり我々が救われるのは、十字架だけでない。復活にもよるのである。今の教会の説教に、主イエスの復活の躍動的な証しが不在のことが多い。説教が、贖罪の手続きの静かな説明だけになっている場合が多い。
ロマ書に教えられているように復活信仰とは、イエスを復活させてくださった方の霊が宿ることによって、私たちに力が与えられ、私たちが変えられ、潔められるお働きである。証しとは、そのことの体験であり、体験の分かち合いで、自分がイエスにあって変えられた、その喜びの証言である。
ヘブル語の重要性
旧約聖書からの説教が重要である。我々は、日本の文化に受肉するキリスト教の在り方、礼拝の在り方などを模索しているので、そのとき聴衆と共に、旧約聖書から貴重な方向付けを頂かねばならない。旧約の文化は非西欧的で、西アジアの歴史と社会を舞台としている。それは砂漠地帯の文化を持っており、なるほどモンスーン気候を含む日本の風土とは異なるが、なお西欧で発達してしまったキリスト教信仰を日本向けに修正するには、欠かせない要素である。
もし我々が、旧約聖書も神の言葉であると信じているなら、旧約からも話すべきである。旧約の分量からいっても、新約と旧約を半々に話してもいいのである。
そのことを考えると聖書原語、特にヘブル語の学習が重要である。筆者の母校はギリシャ、ヘブルの2つが必修だったが、現在ではどちらか1つを選択になってしまった。日本では、現在2つとも必修の神学校は1つだけになってしまった。米国でも、2つとも必修させる学校はないようである。
米国では、米国社会に通用するキリスト教について、十分な把握があるからそれでいいだろう。だが、日本の教会は違う。どういう形のものがよいかを、現在模索中なのである。ヘブル語の学習が必要である。自信を持って旧約聖書から発想のできる人材が必要である。
伝道者が全部ヘブル語に通じることは無理としても、牧師10人に1人くらいはその素養があることが望ましい。今は、100人に1人も難しいところだろうか。ちなみに新約聖書のヘブル語訳がある。これでマタイ福音書などを読むと新鮮な衝撃があり、主イエスの会話や説教はギリシャ語でやったのではなかったのだ、と実感する。
ヘブル語の新約聖書から受けるものは、主イエスにじかにお会いしているかのごとき感動である。主イエスの日常の言語は厳密にはアラマイク語(西シリヤ語)でヘブル語ではないが。両者は同族語であり、ギリシャ語と比べれば何十倍も近いのである。
旧約聖書からの発想が重要である。ヘブル語までいかなくてもいいが、日本宣教のためには旧約聖書を何十回も通読することが必要と思う。
使用聖書
どの聖書を使うか、ということである。筆者は思い切ってこれからはリビング・バイブルを礼拝において公式に使用する。
リビング・バイブルについては、忠実さということにおいて問題があるのは周知のことである。しかし読みやすいということは大きな武器である。筆者の牧会していた教会で、60歳代の婦人が、娘にもらったリビング・ バイブルをつい読み始め、面白くて読んでしまい、後に受洗されたことがあった。長年の信者でも、聖書通読をしたことのない人がたくさんいる中の出来事である。
大掴みの聖書の把握は大切である。聖書を一度通読すれば、信徒の態度は変わる。その祝福は何度も見てきた。リビング・バイブルを使用することによって、すべての信者にそれを体験してもらえると思う。娘が教会に行くのを反対していた母親に、ふと手に取って読み始めさせ、終わりまで読んでしまわせる力を、この牧師の間ではあまり評判の良くないリビング・バイブルは持っているのである。
初期のキリスト教会は、70人訳のギリシャ語聖書を使った。これも翻訳の正確さに問題があった。またルーテルの聖書翻訳は原語からであるよりは、事実上はヴルガタ・ラテン聖書からの重訳だったらしい。また我が国の先輩たちが使用してきた文語の旧約聖書は、どうも漢文聖書の読み下し文だったらしい。道理で詩篇など、名文だったわけである。(それにしてもヨブは何が書いてあるかまったく分からなかった。)それを考えればリビング・バイブルが正確さに欠けるとしても、問題はないのではないか。
ダビデ・マーチン宣教師は、自分も夫人も聖書物語を読んで救われたそうである。彼を伝道会に招くと、全8巻かの絵入りの聖書物語の2、3セットをドサッと持ってこられて、欲しい人は上げます、と提供してくださる。初めは何だかもうおかしくて、変な感じがしていたが、ある時、そうだ、先生は自分が救われたように、まさにこの絵本聖書で救われる人がいると確信しておられるのだ、と強く感じた。そのことが忘れられない。
ある神学校で、その年の新入生のすべてが、マーチン師の話で救われた人たちだったという。師の平易な伝道説教は定評がある。小生も絵本聖書を使って、聖書の話ができる老人の信徒伝道者を養成したいと願っている。
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
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【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
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