ペテロは・・・こう言った。「イスラエル人たち。・・・なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。・・・神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。あなたがたは・・・いのちの君を殺しました。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。・・・このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、・・・この人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。(使徒3:12~16)
世の中が不安と自粛の中にあっても、私たちは教会に集まり、共に神様を礼拝することができる恵みに心から感謝します。教会の対応もさまざまですが、教会は、神様からこの世に遣わされた、社会的責任を果たす場です。同じように社会的責任を担っている病院や警察、役所などができるずっと前から、教会は社会の中で人々に平安を与え続け、祈りをもって人々に寄り添い、励ましてきました。
教会が2千年にわたって機能してきたことを思うと、私たちの教会も、このように世間が不安の中にあっても、機能する場でありたいと願います。予防など、なすべきことをきちんとして過ごし、必要以上に恐れることがありませんように。悪魔は人の心に忍び寄って不安をあおり立てますが、私たちは、イエス様を信じて堂々と歩んでまいりましょう。
私たちはクリスチャンらしく、私たちをさらに幸せにする喜びや恵みに導く名前、「イエス・キリスト」を呼び求める者でありたいと思います。聖書には、「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」(ローマ5:20)とあります。悪や罪の力が増し加わるならば、それ以上の確かさをもって、神の恵みは増し加えられます。私たちが弱さを覚えるときに、神様は恵みをもって関わってくださるのです。今日の聖書箇所から、2つのことを学びましょう。
1. イエス様の御名には力がある
ペテロとヨハネは、自分たちが行った奇跡について、その力の出所は自らにあるのではなく、イエス・キリストの御名によるものだと、素直に告白したのです。ペテロは、神様がイエス様に神の栄光をお与えになられ、救い主として現れてくださったことを語りました。
私たちを解放し、癒やし、祝福し、恵みを与えてくださるのは、イエス様の御名なのです。私たちは困難に出会うと、自分の力で物事を解決しようとして行き詰まってしまいがちですから、救い主イエス様に注目したいと思います。イエス様はどんな方だったかというと、私たちの罪を背負って十字架で死なれ、3日目に死の力を打ち破り、よみがえられたお方です。そこには命があり、癒やしの力があります。十字架とよみがえりの主イエス・キリストの御名が持つ恵みの大きさを受け止め直しましょう。
2. イエス様の御名によって祈る
神の栄光を帯びた偉大なイエス様は、あまりにも大きすぎる存在です。しかし、私たちは救い主イエス様に直接出会いたいと思います。イエス様に出会うためのきっかけは、どこにありますか。神様は、私たちが愚かで、足りなくて、どんなに弱い者であっても、イエス様の御名を唱えることをゆるしてくださいました。私たちには、イエス様の御名をもって祈るとき、偉大な恵みを働かせていただけることを感謝します。
私たちの祈りの中に、イエス様との明確な接点があることを忘れないようにしましょう。御名による祈りは、霊的なクリスチャンに与えられた、大きな賜物の祈りです。今日も私たちは、イエス様の御名によって祈り、癒やされ、解放され、勝利を得たいと思います。私たちは弱い者です。本当に強いイエス様の御名によって、癒やしを祈ってまいりましょう。
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