他宗教に対する敬意
西欧の社会を見るとき、従来の西欧的キリスト教倫理の欠陥をイヤでも見ざるを得ない。逆に日本の社会の安定と清潔さ、また青年層の健全さを見るとき、日本社会の倫理の高さを認識するのである。
経済評論家の日下公人は、『「道徳」という土なくして「経済」の花は咲かず―日本の復活とアメリカの没落』(祥伝社)を出して、道徳の低い国は衰退する、米国の衰退が明らかになってくると論じている。その預言はサブプライム騒ぎを見ても当たっている。そのように真面目に分析している専門家がいるのである。いや、米国の社会の悪さがキリスト教のせいだなどとはとんでもない、あれは罪人や悪人のやっていることである。キリスト教の責任ではない。そういう議論が通常はされる。
では、国民がごく形式的に仏教を信じているにすぎない日本のほうがより清潔で、より安全なのはいったいどうしたことなのだろうか。理解に苦しむことである。あるかないかの仏教の影響を受けた罪人のほうが、キリスト教文化の中の罪人よりずっと善人なのである。
2001年の暮れに、米国のエンロンという会社が潰れたが、子会社を何千も紙の上で作って、電力のカラ売り、カラ買いをやり、それをヌケヌケと業績として発表していた。業績も利益も驚異的であるというので株価が高騰していた。それが隠し切れなくなり、バレてしまった。
カラ売りを何千回となくやれば、カラ伝票がそれだけ出るわけで、すぐ怪しまれるが、いまどきはコンピューターに実行させればいい。数秒間で出来てしまい、伝票はハード・ディスクの中にある。だから従業員も誰一人気付かず、みな自社の株を買っていた。
その夏のカリフォルニアの電力危機は、エンロンの電力買い占めが原因だったそうである。問題は、ニューヨークの証券取引業界の態度である。エンロンが潰れる前日まで、優良株として活発に取引がされていた。つまり、公式に発表があるまでは、皆で客に売りつけていたのである。あとでまったく知らなかった、と皆で言っているが怪しい。プロである。知らなかったわけがない。
実際には自分の顧客にエンロンは危ない、やめなさいと言ってメールで警告を出して、そのためにクビになったトレーダーが何人もいる。プロの間ではうわさになり、常識だったらしい。だから業界ぐるみで社会を騙していたのである。しかし、大本営発表がある前は、単なるうわさであるから、それを顧客に教えると会社に損害を与えたことになる。だからクビになった。変な話である。
同じ頃に潰れたワールド・コムの場合も、粉飾決算を整理したら、75億ドル下方修正になった。その時のドル換算率にもよるが、約1兆円もごまかしていたことになる。2004年3月のタイム誌によると、公認会計士はどうしていたのか、もっと監視機関を増強すべきだ、などと言って騒いでいる。監視機関など増やしても、どうせ米国のことである。また、同じことの繰り返しになるのだろう。
日本社会の清潔さと道徳性を生んだものとして、鎌倉新仏教以来の精神的伝統の強力さを見なければならない。特に庶民を大切にし、庶民に機会と自由を与えることにおいて、日本の文化はユニークである。また市民一般に学ぶことの喜びがあり、知的努力を貴ぶ伝統がある。我々はこのような日本文化と、そこで日本の仏教が持ってきた役割を、その宗教的伝統と合わせて尊敬すべきで、キリスト教会の側からも、公式に尊敬の態度を示すことが大切である。浅薄な知識による対立的態度は、何の役にも立たない。かえって害毒を流すのみ。
牧師は日本史、特に中世から近世にかけての歴史をよく学ぶ必要がある。牧師養成機関では、これまでは日本史の無知を放置してきたが、これでは日本伝道は難しい。他宗教に対する嘲笑的な態度も、これはいけない。確かにイザヤ、エレミヤ、エゼキエルなど預言者には、偶像に対する嘲笑的な言辞はある。しかし間違ってはいけないので、これらはイスラエルの民に対して言っているのである。イスラエル人の中で、自分の神を捨てて、異教の神々に迷って行く者たちへのきつい説教である。
イザヤやエゼキエルの説教は、福音を知らない、もともとの偶像教徒や異国の民に対してではない。パウロはアテネで心に憤りを感じたが、でも開口一番「アテネの兄弟たちよ、・・・ あなたがたは宗教心にあつい」と言って褒めて話を始めている。「デイシダイモネステルース」は称賛まではいかないかもしれない。ただ、嘲笑的でないことだけは確かである。
イザヤにもホセアにも、信じる者たちの社会に残虐なことが行われていて、神を知っている者がそれを放置していることに対して神の怒りと警告がある。偶像を礼拝する者への警告は、その一つである。それを覚えるべきである。
一つ、新興宗教に学ぶことがある。それは新しい人に直ちに、主体的な実践をさせるということである。つまり絵像を買わせ、経文の抜粋を買わせ朝に夕に「お勤め」をさせるのである。つまり初心者にも、その日からすぐにやらせることがある。これはもちろん「型」と関わりがあるのだが、良い点は模倣すべきである。
キリスト教会の場合は、礼拝や集会に出ることを勧める。聖書は難しいから、牧師の話を聞きなさい、と牧師は「自分の説教」を中心にし、これが武器であると思っている。もちろん牧師は説教に命懸けで苦心しているから、その点で他の宗教とは提供するものが違うのであるが、やはりまず聖書を読んでもらわなくてはならない。
そこで初心者用に聖書の抜粋を作っておいて、1ページに5〜7節を印刷し、朝に夕に1ページを音読し、主の祈りも最後のページに印刷してこれを祈らせるようにする。まず第一歩から、自分で恵みを受けられる機会を準備しておくべきであろう。
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
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【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
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