<古代イスラエルの平和>
旧約時代から現代にいたるまで、イスラエルでは平和を意味する「シャローム」という言葉で挨拶を交わしてきました。人々は「シャローム」を尋ねることによって他者への関心と交わりを表明してきたのです。
ひとりのアメリカ人が旅の途中でパレスティナにある教会の礼拝に出席しました。会衆席に座る人々に「サラーム」(アラビア語)と言わず、「シャローム」と挨拶をすると、人々は目を閉じて下を向いたままであったというのです。パレスティナのクリスチャンにとって「シャローム」とは「テロ国家イスラエル」の「平和」を意味する言葉になってしまっていたからです。
古代イスラエルでは、「シャローム」とは人々の全生活領域における秩序、安定、必要の満たし、さらには、社会的に恵まれない者たちへの正義と保護の存否を尋ねる挨拶でした。しかしながら、その一方で、戦争が支障なく進められているか否かを尋ねる「戦況の安否(シャローム)」(IIサムエル11:7)の挨拶があります。ここでは、勝利と神の救いとが直接的に同一化されています。平和は最終的には敵の脅威を戦いによって取り除くことによってはじめて保たれる現実なのです。
「あなたは殺してはならない」という十戒の規定はイスラエルの民の間で殺傷を禁止した掟に過ぎず、戦時下では妥当しないものでした。ここから、「軍神(万軍の主)」とか「聖戦」という観念が生まれてきたのです。「万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神は私たちの砦の塔」(詩編46:7)とうたわれているように。旧約における「聖戦」とは、「万軍の主」がその民のために戦い、民は「万軍の主」によって守られて戦うという一種の「戦争の神学」であったのです。
「地の果てまで、戦いを断ち、弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる」(詩編46:10)ここでは、シャロームが終わることのない平和として描かれていますが、従順な国民の繁栄と不従順な国民の滅亡という神学に基づいています。それはイザヤがアッシリヤによる征服に神の懲らしめを見て、エレミヤがバビロンによる滅亡に神の摂理を見たときも同様でした。これらの預言者の特徴は、救済を宣教することによって現実のイスラエルの破綻を繕うのではなく、その罪責を白日の下にさらけ出し、それを倫理的決断によって担い通す苦難のしもべの姿でした。しかしながら、ここには、終末論的な希望が語られているとしても、≪エルサレムの平和≫という限界によってイスラエル民族主義を突破する視点を見出すことは出来ません。その克服は新約のイエスを待たなければならなかったのです。(つづく)
◇木村公一(きむらこういち)=1947年東京生まれ。東京神学大大学院修士課程、西南学院大専攻科修了。86年から2002年まで17年間インドネシア宣教師としてインドネシア・バプテスト神学大で教鞭を執る。2002年12月から福岡市の伊都キリスト教会協力牧師。03年今年3月には「人間の盾」としてイラクへ、04年5月にもイラク再訪を遂げた。現在、講演会、討論会など全国で活躍中。