岡上菊栄が小学校教師を辞めて高知博愛園の初代園母として奉職を始めたのは菊栄43歳の時、明治43年4月1日からでした。その時から昭和22年4月22日までの37年間、明治、大正、昭和の三時代の長きにわたって、自らのすべてを投げ打って、実親から離れた子どもたちの養育に専念したのでした。
高知博愛園は現在の高知新聞社と電車通りを挟んで南側あたりにあったようです。明治43年に入所した子どもは男女合わせて35人、年齢は6歳から15歳までで、高知県下のあらゆる地域から「孤児」「遺児」「貧困児」「迷児」として保護された子どもたちでありました。
最初の頃、菊栄が養育した子どもの一人に14歳の平七という子どもがいました。平七は結核を患っていました。平七は入園していったんは工場で働いていましたが、どこへ行っても反抗的な態度をとるために仕事が長続きせず、園にいても言うことを聞きません。
その頃、結核は不治の病として忌み嫌われていました。菊栄は何をおいても治してやろうと心に決めて、平七の世話をしていきましたが、いくら言っても菊栄の言うことを聞き入れようとしません。それどころか、結核への恐怖にさいなまれ、狂ったように反抗的な態度をとり始めたのでした。「皆に感染してやる」と言って至る所で痰唾を吐きちらしていくのです。
菊栄は他の子どもたちに感染しては大変なことになると、平七を自分の部屋に入れて、自室に住まわすことにしたのです。布団を並べて平七の頭を撫で、菊栄は毎晩のように平七がうつらうつらと心地良い眠りに入るまで昔話を続けました。特別に平七のために食事を作り、自然治癒力を高めていく食事療法を実践しました。調子を見計らって戸外へ誘い、教会にも連れ出したのでした。
次第に平七も落ち着いてきて、言うことを聞くようになっていきました。そのようにして9カ月目に病院を訪ねて行くと、平七の結核は完治していたのです。院長が驚いて肝を潰し、結核をこれほどまでに治せるのなら、うちの病院の婦長になってほしいと頼まれるほどであったそうです。
完治した平七は性格も温順になり、村で百姓をし、かたわらで郵便配達をするようになりました。神からの使命感に裏打ちされた菊栄の「愛情の力」が平七を心身ともに癒やしたという一つの尊い証しだと思います。
(出典:武井優著『龍馬の姪・岡上菊栄の生涯』鳥影社出版、2003年)
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