本作をレビューするに当たり、「一切のネタバレはない」とはとても言えない。なぜなら、主人公レイの「自分探し」の旅こそ、新シリーズ(エピソード7以降)の肝になっているため、どうしても「レイの出自はどこ?」という問いに触れなければならないからである。
とはいえ、本作は前作「最後のジェダイ」(エピソード8)が持っていた閉塞感、うっ屈とした負の感情は冒頭から一切感じられない。それらをすべて「過去のこと」とするかのように、新たな方向に舵を切るテロップが入る。それは、かつて帝国軍を創設し、人々に暗黒面を垣間見せた銀河皇帝パルパティーンの復活である。
パルパティーンは、ダース・ベイダーとなったアナキン・スカイウォーカーを悪の道へ誘い込んだ策略家として、またフォース(理力!)の暗黒面の第一の使い手として、本シリーズ通じての「ラスボス」である。
彼の復活(どうやって?は問わないことにする)によって、風雲急を告げる勢力バランスの揺れは、ファースト・オーダーという軍事組織を率いるカイロ・レンにとって、そして自らの出自を探しつつ戦いに身を投じたレイにとっても、看過しえない大事件であった。
ここからまるでジェットコースターに乗せられたかのような、怒濤(どとう)の展開が2時間続く。文字通り行きつく暇もないストーリー構成である。このあたりの手腕は、さすがJ・J・エイブラムス監督である。
やがて、カイロ・レンとレイにとって決定的な事実が明らかになる。そしてそれは、今までの物語展開を一気に覆すほどの「大どんでん返し」であった。陰と陽という一対の概念を用いて説明するなら、今まで陽であったものが陰となり、陰として歩んできた者が陽となる、そんな変化が中盤に訪れる。
だがこれもまだ序の口であり、その陰と陽が触れ合うとき、その化学反応によって新たな世界が開かれる。それはある種、予定調和的な展開である。しかし当の本人にとっては、自分が何者であるのか、そのアイデンティティーが大きく揺れ動くことに他ならない。
鑑賞していて、「もし自分の身にこの展開が起こったら?」とふと考えてしまった。今まで信じてきたものがすべて信じられず、今まで忌み嫌っていたものが身近に感じられるような体験・・・。それを本作の主人公たちは体験することになる。
特にカイロ・レンの姿は、使徒言行録に登場するパウロの姿とどうしても重なる。私たちは回心した後のパウロの視点で聖書を読むため、彼のコペルニクス的転換のダイナミズムを軽く扱ってしまいがちだが、彼の中にあった葛藤(自分は人一倍クリスチャンを迫害してきたという事実)は、ガラテヤ信徒への手紙の中であれほど大上段に「使徒となったパウロ」と叫ばなければならないほど、大きな変化として自身は受け止めざるを得なかったのだろう。
一方、レイの方はもっと深刻である。白が黒に、今まで信じてきたものがすべて疑いの世界に落とし込められてしまうような体験である。彼女は「ジェダイになる」ことを願い、一心に修行を積んでいくのだが、その先にあったものは・・・。
本作を一般的な視点から評価するなら、シリーズ最大のスケールで描かれる一大戦闘シーンの素晴らしさや、「最後のジェダイ」であえて逆に振り切られてしまった展開を中道に戻すという役割を見事に果たすストーリーテリングが褒めたたえられるだろう。
しかし、最も白眉となるのは、陰と陽のような関係にあったカイロ・レンとレイが、各々のアイデンティティーを見いだすまでのプロセスである。カイロ・レンはまさにパウロであり、レイは私たちクリスチャンのようなものである。
観終わって強く心に浮かんできたのは、次の聖書の言葉である。
生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。(ガラテヤ2:20~21)
すでに映画を観た人なら、この言葉をレイの境遇に当てはめることに納得してくれるだろう。
スター・ウォーズに登場する「フォース」という概念は、米国における1960年代から70年代のカウンターカルチャー時代の東洋思想が元になっているといわれている。もちろん、東洋思想をそのまま援用したのではない。キリスト教国でこれが活用される場合、どうしても「下地」としてキリスト教的な色合いとの折衷になることは否めない。そして、この概念と親和性が高いのが「聖霊」という概念である。
そう考えるなら、本作でレイがフォースに導かれ、己の真の姿(アイデンティティー)を知り、それに驚愕するというのは、私たちが初めてキリストの福音に触れ、自分が罪人であることを悟るプロセスと似ている(決して一緒だとか、キリスト教的メタファーだとか言いたいのではない。この点は注意してもらいたい)。
しかし、そのことを受け入れること、すなわち神の視点から己を見るということは、単なる「どうしようもない罪人」と自身を見なして諦めることとは違う。そんな罪人のために、命を投げ出して、文字通り「身代わりとなって」(このあたり、映画のクライマックスですね!今思い出しても泣けてきます・・・)、命を差し出したお方の故に、私たちは救われる。これが福音の中心である。
本作のラスト、そしてスカイウォーカー・サーガの最終局面で、レイに対してこんな問いがなされる。
「あなたは誰?」
これに対する答えを劇場で聞いたとき、私は不覚にも涙を抑えることができなかった。
私たちもレイと同じではないのか? 救われる価値のない(と思い込んでいた)存在が救い出され、「(フォースではなく)キリストがわたしの内に生きておられる」と告白することができるのだから・・・。
「罪赦(ゆる)されし罪人」という表現がある。一見矛盾しているが、よく突き詰めて考えてみると、素敵な表現であることに気付かされる。汚れた存在が「清い」とされる。また、自らも己の醜さを知りつつも、神の視点で「清い」と称することができる。そのような存在として生きることができる。
本作のサブタイトルは、邦題では「スカイウォーカーの夜明け」であるが、原題では「The Rise of Skywalker」すなわち「スカイウォーカーの隆盛」である。意訳するなら「復興」といってもいいだろう。血筋を超えた「復興」があるとするなら、それは映画の中だけではない。クリスチャンの世界こそ、「The Rise of Christian」である。
本作「スカイウォーカーの夜明け」は、クリスチャンこそ深く感動することのできる要素がてんこ盛りである。派手なGC、音楽、効果音にだまされず、自分探しに翻弄される現代人をそこに重ねるなら、また一味違った見方ができるはずである。
最後に一言。最後まで見届けることができて、よかった! 生きていてよかった!
May the ○○ be with you!
■ 映画「スター・ウォーズ / スカイウォーカーの夜明け」予告編
■ 映画「スター・ウォーズ / スカイウォーカーの夜明け」公式サイト
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