高知博愛園の初代の園母になってほしいという要請を受けて、菊栄の胸は激しく動揺しました。菊栄にはすでに5人もの子どもがあり、家族に対する自身の責任が重くのしかかってきています。けれども家族のいない、親のいない子どもたちのことを放っておくこともできない、このような子どもたちに親の代わりになってあげたい、自分の家庭の責任を担いつつ幸薄い子どもたちの力になってあげられないものかと、思いが激しく揺れ動くのでした。
赴任先から帰ってきた夫、栄吾に、早速菊栄は北村との話の一部始終を語って聞かせました。すると、栄吾は次のように答えました。
「・・・孤児救済に当たろうなどとは、素晴らしいことよのーし。・・・けんど、菊栄、お前には5人の子どもがおるぞ。千代は生まれたばっかりじゃが。人の子を育てることもだいじじゃが、まず、わが子を責任をもって育てることの方が、親として在るべき姿ではないかえ。5人の子どもは頼みとする母親を失うて、結局、犠牲になるろうが。そりゃ無理な話ぜよ」と全く道理にかなう話をしました。痛いところを突かれ、菊栄は返す言葉が見つかりませんでした。
しかし、菊栄の心は逡巡(しゅんじゅん)しながらも、栄吾の言葉とは反対の方へ強く動いていくのでした。時がたつにつれて、菊栄の気持ちは固まっていきます。そしてその思いは「親のない子」「家庭のない子」のためにこの身を投じたい、これこそが私の天よりの使命。個人的な利害など何ほどのものぞ。「天よりの使命」が菊栄の中で抑えがたい火柱となって突き上げてくるのでした。
そしてついに、菊栄は決意を夫に告げました。すると栄吾は思いがけずすんなりと理解してくれたのでした。人が「天からの使命」に生きようとするとき、周りの者に多大な迷惑をかけます。しかし、この「天からの使命」に従って歩み出すなら、主なる神は周りの人々のことも深くご配慮し恵みをもって助け導いてくださいます。与えられた主の導きの中にまい進するなら、主はすべてのことを働かせて益としてくださるというお約束を、菊栄の生きざまは証ししてくれていると信じます。
(出典:武井優著『龍馬の姪・岡上菊栄の生涯』鳥影社出版、2003年)
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