アフガニスタンで銃撃され死亡した医師・中村哲氏(73)の遺体が9日午前、遺族と共に故郷の福岡に到着した。葬儀は11日午後、福岡市内で行われる。
一方、訃報を受け、中村氏が所属していたYMCAや日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)などのキリスト教団体の代表者は、追悼のコメントを発表した。中村氏が、パキスタンやアフガニスタンに赴任した当時の状況などを分かち合うとともに、中村氏が目指した平和な世界の実現に向けた思いをつづった。
中村氏はアフガニスタン東部を車で移動していた4日午前、同乗していたアフガニスタン人5人と共に銃撃され死亡した。中村氏は同国で医療支援だけでなく、灌漑(かんがい)事業を長年にわたって行っており、勲章や名誉市民権を授与されるほど、同国でその働きが認められていた。首都カブールの空港では7日、アシュラフ・ガニ大統領も出席して追悼式典が行われ、遺体は8日夕、遺族と共に成田空港に到着。羽田空港経由で9日午前、福岡空港に到着した。
バプテスト系の西南学院中学校在学中にキリスト教と出会い、クリスチャンになった中村氏は、九州大学医学部在学時には九州大学YMCAに所属した。日本YMCA同盟の神﨑清一総主事のコメントによると、中村氏は九州大学YMCA時代に、仲間と哲学や聖書に触れることを通して、人間の心の問題、精神に興味を持つようになり、卒業後は佐賀県の国立肥前療養所(現・肥前精神医療センター)の精神神経科で勤務することを選んだ。「若い時代の感受性と学び、経験が中村哲さんの生き方を定めました」と神﨑氏はつづっている。
その後、日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)からパキスタン北部ペシャワールへの赴任を打診され、「二つ返事で」引き受けた。当時37歳だった中村氏は、1984年から同地のキリスト教病院で勤務を始めた。交流のあったJOCSの畑野研太郎会長のコメントによると、中村氏は当初、内科やその他の診療も行う予定だったが、地域のニーズなどを考慮してハンセン病治療に専念することを決めた。そしてハンセン病病棟の責任者として、90年までJOCSの派遣医師として働いた。
神﨑氏によると、JOCSもYMCAから誕生した働きだったという。また、中村氏の活動を支援しようと、YMCAの仲間や同志らが設立したのが国際NGO「ペシャワール会」だった。当時の同会の事務局は、福岡YMCAにあったという。
「学生時代から、多くの人と関わり、自分自身の弱さと向き合いながら社会の課題に気づき、行動をし続けてきた、大切なYMCAの先達のお一人です」と神﨑氏。「今、そのバトンを受け継いだ『私たちのこの時』を多くの方と共有し、平和とは何か、地球市民としての私たちの役割は何か、あらためて共に考えることができればと思います」と語った。
畑野氏は、「彼のような働きをできる方は、本当に稀(まれ)であると思います。彼の偉大な功績を思いますと、彼の命が奪われてしまったことは、本当に残念」と述べ、中村氏の業績を称えるとともに、その死を惜しんだ。「彼自身の中でもっと働き続けたいと願っていたことを思うと、さぞかし無念であったと思います。こういった加害者たちを出さないでよい『平和』を築くことこそが、彼の願いであったと思うからです」
畑野氏はまた、海外医療、ハンセン病医療を志す同志として、JOCSの働きにおいて、タイの小さなバンガローで1週間にわたり中村氏と寝起きを共にしたことを回顧。「それから32年間、尊敬する先立ちとして、本当に人々の必要に応える働きを精力的に続ける尊敬すべき先立ちとして過ごしてくださいましたことを、心から感謝申し上げます」と語った。
「この世では、もうあのように親しくお話をすることができないと思いますと、復活の時が来ることを信じているキリスト者ではあるものの、本当に寂しさに打ちのめされる思いです」。畑野氏は悲しみをつづりながらも、最後には「働きの場は違っても、彼の目指した『真に平和な世界』『みんなで生きる世界』の実現に向かって、これからも小さな歩みを続けていくことを願い祈っております」と述べた。