新約聖書の「ルカによる福音書」にあるイエス・キリストの例え話をモチーフにした映画「種をまく人」が30日、東京の池袋シネマ・ロサで公開される。精神病院を退院した男性が、弟家族を訪れ幸せな一時を過ごすも、ある事件により状況が一変。元精神疾患者への偏見や、障がい者のいる家族たちの苦悩や葛藤を通して、「生きるとは何か」という根源的な問いを投げ掛ける。
本作の着想は、オランダの名画家ゴッホの苦難に満ちた人生と、竹内洋介監督が東日本大震災の被災地で見た一輪のひまわりから得たという。ゴッホは気難しい性格で、同居していたゴーギャンとはトラブルを起こし、37歳の若さで自死した。その一方で、ゴッホの良き理解者であった弟テオとその家族とは、心を砕いた交流をした。そうしたゴッホの姿の根底には、若き日に聖職者を目指し、ベルギーの炭鉱地帯で貧しい人々に寄り添いながら伝道した経験があった。
竹内監督はこうしたゴッホの生涯から、代表作「種をまく人」は、ミレーの同名作品のオマージュではなく、ルカによる福音書8章4~8節に描かれた世界を投影したものだと考えるようになったという。同箇所には次のように記されている。
大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話しになった。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」
映画のもう一つのキーであるひまわりは、2011年夏、友人と共に被災地を訪れた竹内監督が、津波により荒れ果てた地で目にしたものだった。誰かが植えたのか、波に流された種が自生したのか、どうしてそこに咲いていたのかは分からない。しかし、殺伐とした被災地に咲く一輪のひまわりとの出会いが、竹内監督の心に何かを残したという。
そしてもう一つ、映画で重要な要素となるのが、ダウン症の少女の存在だ。竹内監督はその後、被災地訪問の半年後に生まれたダウン症の姪との出会いを与えられる。この姪の存在が、竹内監督に何とも言えない幸福感を与えた。「彼女の屈託のない笑顔はまるで天使のようで、本当に周囲を明るく照らすのです。彼女の無垢(むく)な心、その笑顔に触れるたび、障がいとは何か、個性とは何かを考えさせられます」
聖句をモチーフにしているものの、作品中に聖書を読むようなシーンはない。しかし、これまでに作品を観た人々からは、クリスチャンはもちろん、ノンクリスチャンからもキリスト教の精神が映像に現れていると評価する声が上がっているという。
カトリックのジャーナリストである松沢直樹さんは、次のように評している。
罪を犯した知恵(主人公の弟の長女)をかばい、弟の家族を守るために光雄(主人公)は沈黙を貫いているのである。拘束されて引き連れられる時に見せる光雄の表情は、まるで人々の罪を背負って茨の冠を被り、処刑場へ連れられるキリストのようだ。
竹内監督は、本作が自身初の長編映画ながら、ギリシャの第57回テッサロニキ国際映画祭で日本人として史上3人目となる最優秀監督賞を受賞。また、主人公の弟の長女役を演じた竹中涼乃(すずの)は当時11歳で、同映画祭の最優秀主演女優賞を史上最年少で受賞した。さらに、その他にもさまざまな国際映画祭に出品され、ロサンゼルス・アジア・パシフィック映画祭ではグランプリを含め4冠を獲得している。
<あらすじ>
3年ぶりに精神病院を退院した高梨光雄(岸建太朗)は、弟の裕太(足立智充)の家庭を訪れる。光雄は、裕太、義妹の葉子(中島亜梨沙)、そして2人の娘である姉の知恵(竹中涼乃)と、妹でダウン症の一希に囲まれて穏やかな時間を過ごす。その夜、知恵にせがまれた光雄は、被災地で見たひまわりについて語る。知恵はその光景を思い浮かべながら、太陽に向かって咲くひまわりと、時折ふと空を見上げる愛らしい一希の姿とを重ね合わせるのだった。
明くる日、知恵は光雄と遊園地に行きたいと嘆願する。裕太と葉子は快諾し、娘たちを光雄に預ける。しかし幸福な時間も束の間、光雄が目を離した間に一希に思わぬ不幸が訪れる。そして知恵の犯した「罪」により、光雄と裕太の家族の間、そして裕太と葉子の間に亀裂が入っていく。あらぬ疑いをかけられた光雄は社会的にも非難を受け、裕太の家を後にする。悲しみの中、ひたすらひまわりの種をまき続ける光雄。しかし、絶望の中にある知恵と裕太が最後にたどり着いた結論の先には、かすかな光が――。
■ 映画「種をまく人」予告編